「主人公を格好悪く描く」のはかなり難しいのではないかという話
自身のことをオタクと表現してよいのかには迷うものの、サブカルチャー系の小説やアニメもそれなりに嗜む身であり、人生でもそれなりに少なくない時間をそれらのコンテンツと共有してきた自覚がある。そんな私が最近悩んでいるのが、「主人公補正」に段々と耐えられなくなってきているということだ。はじめは「最近のコンテンツはなってねぇな」と思っていたのだが、自分で閾値などの話をするうちに「本当にコンテンツ側の、或いはだけの問題なのか?」「それは私がボリュームゾーンじゃなくなっただけで、エゴじゃないのか?」と疑問を持ち始めたので、考えてみる。なお、可能な限り作中の具体的な描写には言及していないので、具体例は視聴者にしか伝わらないかもしれない。また、展開が推測できてしまう情報も混ざるので、未視聴未読の場合は注意していただきたい。
そもそも、小説における「主人公補正」というのは客観的にどのような立ち位置にあるのか。私は当初、完全な「創作だから」という認識で片付けていた。実際、最近は「フィクション」の範疇であると思われている節がある。
本当にそうだろうか? もちろん理路整然としていないものについて侮蔑的に呼ぶ場合もあるが、本来の「主人公補正」とは、例えば「世界に幾らでもいる可能性のある人物の中で"たまたま上手くいった"成功譚」を主観視点で逆投射したもの、という見方はできないか。世界には地道に誠意ある行動をとっていたら大成功した奴だって居るし、憧れの高級ギターを試し弾きしていたら匿名でプレゼントされた若者だっている。それが「我が身に起こる」可能性は限りなくゼロに等しいが、成功者を、そして語る視点を任意に選べるのであれば、「現実は小説より奇なり」の裏返しであることになるし、世の中に思いがけないことが、それもフィクションでなく現実に起こっていることは、Twitter世代以降なら寧ろ理解があるはずだ。
では、なぜ我々が(主語が大きいかもしれないが)「主人公補正」にげんなりしてしまうのか。それは偏にコンテンツの消費形態として、「主人公がわかっていて、その人が何かしら特別な扱いを受ける」ことを予見してしまうからに他ならない。認知の歪みがなかった時分、主人公の幸運を無邪気に喜んでいた頃の閾値には戻れないのだ。
これはおそらく、自然主義派などはともかく、創作物に凡そ共通する命題で、これを如何に克服するのかというのは難しい問題だ。
そして私の見たところ、解決にある程度成功している(と私が考えている)作品には共通点がある。それは「主人公が格好悪い描写がある」ことだ。主人公に欠点のある作品や独善性を認めている作品は山のようにある。しかしそれは本当に、強い言い方をしてしまえば「生理的に目を背けたくなるほど」格好悪いだろうか。勿論言い過ぎだし、そこまでくれば人気など出ないのだが、大まかに言いたいニュアンスはそんな感じだ。年若い主人公が物語世界に生きる「ただの一人の青年」に貶められることこそが、我々に「主人公の非特別性」を意識させ、作品世界への視界が急速に広がるのである。
これからは作品の紹介ともに話を進めたい。はじめに紹介するのは「機動戦士ガンダム」だ。オルフェンズでも、それこそZでもなく1stのやつである。テーマは「クソガキ感」で、話の流れからわかるようにアムロ・レイのことだ。
アムロは我儘で、特殊な立場であることもあり所属意識が低く、それでいて戦争に理解を示したような口をきく小生意気なやつだ。彼がある種の癇癪のようなものを起こす描写は、一見してZのカミーユ・ビダンなどと同じような「周りに合わせられない我儘さ」或いは「大人への反抗心」に映る。
しかし、実際のアニメシーンを見ると。アムロにはカミーユとはまた違った心境がみえる。それはアムロ自身の年の若さや環境から来るアンコンシャス・バイアスと、それに伴う己への甘さである。ただ己に甘いのではないし、「大人」への反抗心だけではない。アムロという主人公にも思春期特有の「視界の歪み」があるのだ。アムロが時々見せる「要求と行動のズレ」や「正しさの欠如」というのも、アムロほどの頭があればわからないわけはない、現に同年代のクルーも従っているようなところもある中で、それを正しさと信じてもがく、無意識な余裕のなさの描写なのである。
機動戦士ガンダムにおいて、こういった描写はアムロにも、そして年若いクルーにもある。カミーユと異なるのはそういったアムロ自身の、ある種「都会的な擦れのなさ」だろうし、そのどうしょうもなく理解できてしまう視野の狭さに「クソガキ感」の解像度を感じるから、我々はアムロを見て少しむず痒くなってしまうのだ。
アムロは、主人公としてある種最も真っ当な方法で「貶められ」た。こういった描写は私にガンダムの世界を広く感じさせ、未だに好きな作品の一つとして必ず挙げさせる程に深みをもたせてくれているのである。
他にも主人公を貶める方法はある。次はもっと構造的なロジックだ。紹介するのは西尾維新「恋物語」である。
恋物語は物語シリーズには殆どない、主人公阿良々木暦が語り"じゃない"作品である。代わりに語りを務めたのは貝木泥舟という怪異の専門家であり詐欺師の男で、主人公周りのキャラクターを幾度となく騙し、陥れたような描写がさんざん書かれてきたキャラクターだ。そんなキャラクターが依頼を受けてある「神様」に挑む話なのだが、これが非常に面白い。今まで阿良々木暦は「怪異」と対峙するとき、最善を目指して、或いは結果的に最善ではなかったとしてもまあそれなりの落とし所にしてきた。そこには大抵、直接ではないにせよ専門家「忍野メメ」の影があったし、「上手くできたかどうかわからない」ということを常々挟みつつも、主人公の周りは幸せそうだった。
しかし今回、阿良々木暦はひたすらに空回る。描写は殆どないが、今までの作品で良いように語られてきた正義感が、フレーバーテキストなどではなく正しく「独善」であったこと、主人公阿良々木暦の本質的な「至らなさ」「無力さ」のようなものが、ほぼ直接対峙したわけでもないのにありありと描かれる。今までの敵役、そしてある種のアナザー阿良々木暦としての専門家貝木泥舟をシリーズの中で唐突に1巻語り部にするだけで、他の作品の見え方にぐっと深みが出る。「ああ、阿良々木暦は素人で、格好つけているけど必死に頑張っているんだよな」ということが(少し薄っぺらくなってしまったが)"わからされる"。これはやられたというか、上手いこと捌いたという感じで、ガンダムとは別の解決法として認めざるを得ないところであるし、初読よりも私に深く刺さったのは言うまでもない。
このように、私があまり意識していなかっただけで、過去に読んだ/視聴した作品にも様々な手法で対応してきたものがあったことを知った。私がもう見るのが辛くなった作品も、まだそうではない作品も、全てに誰か刺さる人がいて、私の「閾値」が上がったことで新しく魅力に気づける作品が増えることを素直に喜びたいと思う。
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