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都会というモルヒネ


 本懐ばかり探して生きていると、果たして、本懐など存在しないという予感が、恐ろしいことにある種の人間性を帯びてくるのです。
 有機質の輪郭に、これまた有機質の髪や髭が生え、ザラザラ、モチモチとした触感を覚えます。
 一旦立ち止まって考えます。

 ……自分とは何だっただろう。

 齢25にして、まるで床に臥す耄碌のような頭でこのような問いを編み出しながら(厳密には比喩ではなく、明らかに自分は最期までこの解を持ち合わせないだろうという確信が、5時に東から登った陽がおよそ12時間後には西へと沈んでいく盆地住民のサーカディアンリズムのごとく、身体中の皮膚に膠着して剥がれないのです)、ぼんやりとピースの煙を見ていますが、そのモクモクが教えてくれるのは肺胞の黄ばみだけで、いささかの面白味もありません。

 退屈で退屈で退屈で、本数が増えていきます。モクモクのなかに時々本懐のような何かが混淆します。

 ……都会に棲みたい。

 都会、人工過密都市、その膨大な欲望のエネルギーが、ほとんど運命的に、4種類の人間を生みだします。

1.鈍感な人間
(すべての人間に自我があるのを鋭敏に感じながら、あるいは感じずに、しかし健康的に暮らしていける人種)

2.独善的な人間
(すべての人間が善悪両方を兼ね備えた存在であるのを知りながら、あらゆる理不尽に遭ってなお、勧善懲悪の善の側に自己を保ちつづける人種)

3.孤独な人間
(隣人愛を完全に放棄して、森羅万象を内向的に観測できる人種)

4.壊れてしまった人間
(欲望の過剰摂取に心身を滅ぼし、都会中毒に罹った人種)

 自分は喩えば、東京駅の動く歩道にさえ恐怖します。
逆・フラッシュモブ。全員が一斉に、示し合わせたみたいに自我を消すあの瞬間が、身の毛のよだつほど怖い。
 だから自分は、あの長い長い「自我専用」の廊下を、1.5倍速で歩きます。

 喩えば、タワーマンションに宗教じみたイデオロギーを感じます。
 誰もが目指すべき富と安寧の象徴、と言わんばかりに、どんな安アパートからも見えるほどの高さで存在していて、偶像崇拝のごとく、全庶民の脳を汚染するミームと化しているからです。
 自分の目には「資本主義教」の敬虔なる信徒たちの勃起した陰茎に映ることもあります。

 それなのに都会に棲みたい。これは幼稚で退屈な矛盾です。
 自分は都会を恐れるくせに、渇きにも似た羨望を持ちあわせ(都会というモルヒネを静脈に注ぐだけでは満たされない、浸り、泳ぎたいほどの渇求です)、その欲望の糸を、繊維のレベルまで分解し、公平に観察してみるとこれは実に簡単な理屈です。
 羨ましいものは存在して欲しくない、存在しないことにしたい、そうやって詭弁を孕みながら生きている自分の弱さが怖い。

 ……怖い、それが本懐でしょうか。自分のなかで迷子になります。目の前が真っ暗になって道が閉ざされた気分になると、手持ちの「事実カード」だけを場に並べてみる癖があります。

 19歳、東京、鬱病発症。

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