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初めて鬱だと診断された日

 初めて鬱だと診断された日、私は(あくまで個人的には)救われたような気持ちがしました。それまで頭の真んなかに寝そべっていた「死」という形の、わけのわからない記号が雪みたいに溶けていったのです。
 一般に鬱病患者は初診を受けた際、自分が鬱病であるという事実に落胆するそうです。人非人の烙印を押されたような気持ちがするのでしょうか。はたまた、落胆できるほど自覚症状が少なかったのでしょうか。あるいは突然の宣告に脳のキャパシティを超えてしまうか。自死の口実を得た喜びに客我が気づいて絶望してしまうか。いずれにせよ憶測の、狭小極まりない領域を出ません。
 私が初めて鬱を自覚したのは十九歳のことでした。味覚がサッパリと消えてしまったのです。そうなると不思議なもので、逆に、味の薄いものを好むようになりました。食パンであったり、白飯であったり。どうせ味がしないものですから、段々と食欲が薄れていきます。
 記憶している最後は、朝目覚めた時、一人前のソースを半分だけ和えたカルボナーラが卓上に乾いていて、そのうえを小蝿が飛んでいるといった情景です。私はその日なにも食べませんでした。
 「今日もまた生きねばならないのか」と呟いた自分の声がピン・ボールみたく鼓膜にぶつかって痛かった。自分は完全におかしい。こんなのが普通だっていうなら、到底生きていける自信がない。念じるように、自死を唱える日々が始まったのです。
 大学を中退し、実家へと戻り、充分な休息を得たおかげもあってか、食欲も味覚も回復し、空っぽの筐体だった肉体がわずかに人間らしさを取り戻していきました。
 しかし私は、どこで覚えたのか、他人の前ではいかにも健常者かのように振る舞う狡猾さを身につけており、自分でそうしておきながら、誰にも理解されない苦しみと戦うことになるのです。
 四年が経ちました。ハロー・ワークを介して小売の営業職に就きました。
 毎日、東京─大阪間を往復できるほどの距離を車で走り、取引先に商材パンフを配り歩き、注文が入れば即時下取りをし、メーカーから商品が届けばそれを配達し、帰社したらまず会計伝票を処理し、それから翌日のプレゼン資料を作り、最後に事務所を掃除する日々。
 そうして朝六時に家を出て、夜十一時に帰宅する生活を三ヶ月ほど続けたある日、突然、あらゆる情報が目の前から消えました。
 じんわりと人間性は思い出され、あれ、自分はどこに、運転していた、気がする、あの、目の前の銀色の壁は、二tトラックの背中だろうか、いま、右足の筋肉を動かせば、四年間、ずっとほしかったものが手に入る、なんだ、思ったより容易い……。
 次に気づくと私は市営美術館の駐車場に居ました。辺りは真っ暗になっていて、記憶の糸を手繰り寄せます。
 そうだ、仕事は全部こなした。明日は取引先直行。でも会社に営業車を置いてきた。いまは……二時。緑色の光。誰かからのライン。文字が読めない。頭痛が酷い。右の目玉が、ギュッと握りつぶされるように痛い。痛いのは目だけじゃない。全身が痛い。普通じゃない。普通扱いしないで。こんなのは普通じゃない。どうかしている。私がもう健常者ではないことを、誰も気づいてくれない。なぜなら気づかせる勇気が私のなかにない。いったい、空っぽの筐体。

死にたい。

死にたい死にたい。

死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい……。

(思えば、このときに死ねばよかったかもしれません)

 無。
 自覚があるだけの鬱病、それは、何かで在るフリをした無。
 帰宅して私は眠らずに朝を待ち、六時ちょうどに上司へ病欠の報せを入れると、すぐさま、紹介状なし・当日予約でも初診を受けられる精神科を探しました。
 母が起きてきて、何の疑いもなく珈琲を淹れ始めました。私は「今朝、早出だから」と偽って家を出ます。さっき降りたばかりの軽自動車に乗りこんで、エンジンをかけ、ブルー・トゥース接続で自作の曲を流し、ボリューム・ボタンを連打し、喉が千切れんばかりに歌います。

〽︎死んでしまう僕ばかり 骨になる 骨になった
 珈琲は淹れたばかり でも君は飲まない……

 精神科に着くと、明らかに自分と同じ皺を持った三台の筐体が待合室に居ました。……初めての精神科ということもあって、そのように錯覚しただけかもしれません。
 一時間ほど待っていたら名前を呼ばれ、個室のドアを開くと、なんというかパンクな顔つきの、白衣を着た老人が丸椅子に座って居ました。
「やあやあ、どうも」
 この老人は終始、アイヌ民族の刺青のように決して剥がれない不気味な笑顔で話しました。
 いくつかの質問を投げかけられ、それらが何だったかもはや思い出せません。ただ私はとにかく一定のトーンで「あの、死にたくて……」と言いつづけたような気がします。
「ウン! 鬱病だね!」と老人が言いました。
 私は、冒頭に述べたとおり安堵したのですが、それと同じくらい驚いてしまいました。
 こんなに、四年間も悩んできたことが、例えば……これは、変な例えだけど「とりあえずビールで!」くらいの感じで、あっさりと解決されてしまうものなのか……!
「会社の方は最低二週間はお休みして、自宅療養なさってください! え〜と、診断書つけますか? 別途料金がかかりますけど」
「……え? あ、はい」
 以降の会話は覚えていません。私は言われたとおりの金額を支払い、言われたとおりの薬局で、言われたとおりの薬をもらいました。もうこの時には、退職することを決めていました。
 二年が経ちました。薬が効いているのか、希死念慮を抱く頻度も、その熱量も下がり、ただ生きたくないだけの日々を漫然と過ごしております。
 あの日、普通でも健常者でもない自分を初めて他人に認めてもらえた瞬間が嬉しくて、時たま思い出すようにしております。
 僕は「私」という社会人ごっこの一人称を放棄して、無たる自覚を抱きながら、同時に病人では在るという数奇な化け物となり果て、年に四回ばかり訪れる鬱病の波を頼りない筏で応戦しながら、すこしずつ、ゆっくりと帆を進めております。
 海原に漂流している筐体を見つけます。拾いあげて中身を覗くと、ボトリ、と記号が落下し潮水に溶けていきます。そうして空洞になった真んなかに「鬱病患者」のパーツを嵌めてやれば、筐体は渋々、嫌々、けれどたしかに、動きはじめます。
 今日はバイトの面接があります。それでは。


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