人生は終わりの見えないマラソンだと思う。 ある日、「よーいドン」とスタートが切られて どこを走ったらいいのか、どれだけ距離があるのか 何も分からずに走り出すことになった。 足を止めると周りに置いていかれ、だけどついて行くことすら辛くて、周りを見るとマラソンを楽しんでいる人達ばかり。 私はいつだって最後尾だった。 「幸せ」「楽しい」「長生きしたい」 こんなマラソンに幸福を感じられる人達が羨ましくて。 「早くゴールを知りたい」 「ゴールが見えたら私も頑張れる」 周りと正反
会話の中でポロッと言われた 「なんだそんなことで?」 私にとってはそんなことじゃないんだ。 「それ」がとても重大なんだ。 悪気がないのは分かってる、人によって悩みの大小が違うのも分かってる。 でも、その一言で全てを否定された気がしてしまうんだ。 ただ、私は自分でも気がつくほど異常だと思う。 何をするにも、 ・何十回と確認しないと気が済まない・でも、確認してからもずっと不安・酷い時は証拠の写真がないともっと不安 本当に異常だと思う。 自分でも引くくらいに。 きっ
今回はある友達の話をしようと思う。 出会いは約2年前、インスタだった。 最初はDMで少し話しをしたりLINEを交換して電話もしたけどしばらくして話さなくなった。 でも、今年に入って急に連絡を取り合うようになって電話も頻繁にするようになった。 自分でも驚く程に。 何がきっかけだったのかは覚えていない。 それほど今が濃すぎるんだろう。 私はこの子に、ある友達の事を相談した。 私の性格上、何よりも友達が大切だから 距離を置かれたり蔑ろにされると凹んでしまう。 この事を相談する
何故だろう。 壊れやすい、傷つきやすい、病みやすい、そんな人のことをあの人は「弱い」。 と言うようになったのは。 壊れやすいことがいけないの? 傷つきやすいことがいけないの? 病みやすいことがいけないの? なぜ、弱い者が負けなんだ。日本人は弱い者が負けで、壊れない者が正しいと思われている。 小さな事でも、挫けると「根性が無い」と言われる。 根性のあるものが偉いのか?根性が無かったら人として間違っているのか? いつから人は根性で生きるようになったのだ。 そうじゃ
なんでだろう。 夢をもって頑張ろうとしている人を見ると、 自分が小さく見える。 応援なんかできるほど広い心は持ち合わせていない。 そんな自分を見てまた嫌いになる。 夢もなく、夢を見てる人を妬む。 なんで生きてるんだろう。 なんの為に生かされたんだろう。 そんなことをよく考える。 私の嫌いな言葉 「生きたくても生きれない人がいるんだから」私だって生きたいと思って産まれてきたわけじゃない。 もし選べてたら産まれてこなかった。 なのに、少しでも死に近づこうとすると周りはそんな
今日、こんな話になった。 「もう一度、産まれてくるとしたら何に生まれたいか。」 「女性じゃなくて男性として生まれたい」「動物として生まれたい」 色んな意見がある中私は、 「二度とこの世界に生まれてきたくない」自然と口から零れた答えがこれだった。 何故だろう。 何故なんだろう。 そもそも、来世なんて本当にあるかなんて分からない また産まれてくることが可能なのかも分からないのに、夢物語すら楽しく話すことが出来ない。 そんな自分が今日も可哀想に見えた。
私が生きてる理由。 そんなの無い。 この世界に産み落とされて、息を吸っては吐いてを繰り返してる。 ただそれだけ。 3分息を止めれば私の22年間は終わるだろう。 生まれてくるのには膨大な時間がかかるのに死ぬのはたったの3分。 なんとも呆気ない。 だが、一つだけ言いたい。 それは、 「生きてる理由なんて見つけなくていい」 だって、見つけてしまったら生きなければならない。 終わりにしたいのに終われない。 死にたいのに生きなければならない。 もっと単純にいこう。 生
いつから生きようとする姿が正しくて 死にたいと思うことが間違いになったのだろう。 生きてることがそんなに偉いことか? 死ぬことがそんなに悪いことなのか? 私にはその考えがどうしても理解できない。 同時に、私の考えを理解してもらうことは到底無理なのだろう。 それでもいい。 いや、それでいい。 交わることは一生ない。 だってこの感情は私だけのものだから。 たた、忘れてはいけない。 それは、 「生きるも勇気、死ぬも勇気」
私の中には光の自分と闇の自分がいる。 私はふと思った。 インスタをやっている時の私は光か闇で言ったら光なんだと。 フォロワーさんに相談されたら、良い方向に考えられるようにプラスなことを言うし、投稿をする時はマイナスな事は言わないようにしている。 だけど、それとは対象的にこのnoteに書き込んでる私はどの記事も明るい気持ちで書き込んでなんかいない。 例えるならば沼に沈んでいるような状態。 きっとこれが闇なのだろう。 どちらが本当の自分かと聞かれたら 闇の自分が本当の自分
今日もこの感情と向き合う。 いつ死んでもいい。 いつこの命が終わってもいい。 毎日そんなことを考えている。 じゃあ、なんで今生きてるの?ってきっと思うだろう。 私にも分からない。 車を運転していて「このままハンドルを切らなかったら死ねるかな」って思うけどそんなことはしない。 ある人に言われた。 「死ぬことは簡単なこと。だからもう1日生きてみな。そしたら何か起きるかもしれないよ。」と そんな言葉を信じてたら今日まで生きていた。 だから、もう1日だけ生きてみよう。
なんでだろう。 なんでこんなことを思ってしまうのだろう。 私の心が荒んでいるからなのか。 この消えることの無いこの感情。 「劣等感」「妬み」「嫉み」 こんな気持ちを抱く私は最低だ。 誰か教えて。 この感情の消し方を。 それなら、見なかったらいい でも、見えてしまう 見ないようにすればするほど見えてしまうんだ。 「劣等感」「妬み」「嫉み」を抱く限り幸せになる事はないと誰かに聞いた。 きっとそうだと思う。 嘘であってもそう言って欲しい。 そして、落ちれるところまで落ち
周りに言われる「普通」「常識」「当たり前」ってなに? 他人に言われる「普通」「常識」「当たり前」って、大概は正確なものではないって知った。 人を傷つけてはいけません。 物を盗んだりしてはいけません。 これは普通だし当たり前とか常識とかそれもそうだけどそれ以前の問題。 学校の授業で習うことは、世界で通用することや日本の中だけで通用する当たり前があるけど、学校では教えてくれない、生きていく中で知ったり教わったり誰かに言われた「普通」「常識」「当
世間は今大変な事になっていますね。 最近のニュースは、みんなの心配より、 「若者は無自覚に菌をばらまいてることに気づけ」という若者へ向けた忠告が増えました。 仕事に向かう途中、朝からパチンコの為に行列に並んでる人を見ました。 キャバクラや居酒屋に人が足を運んでいるというニュースを見ました。 そういうニュースや景色を見て思ったことがあります。 なんで、「事態の収集つかない=自覚症状が出ない若者が外を歩いてる事が悪い」という、解釈になるのでしょう。 確かに今、外を歩
私はすぐ他人と比べてしまう。 そして自分を惨めに思う。 そんな自分を変えたくて、自分の性格をもっと知るために調べていたらこんな言葉を見つけました。 〝絶対的幸福認識〟と〝相対的幸福認識〟皆さんはご存知ですか? 〝絶対的幸福認識〟とは、「好きな人からプレゼントを貰えて、嬉しい!」「今日はミスをしてしまった」など自分一人で幸不幸を感じることを言います。 〝相対的幸福認識〟とは、「あの子は彼氏から5000円のネックレスを貰ってたけど私は1万円のネックレスを貰えたから嬉しい。」
前の記事を読んでもらうと分かると思うんですが、私は多分闇が深いタイプだと思います。 こんな事を言ったら失礼なのは分かっていますが、 私は『今死んでもいい』と思ってしまいます。 それに、『死にたい。消えたい。生きていたくない。』という感情が私の事を猛烈に襲ってくる時があります。 だからといって自殺をする勇気はありません。 苦しい思いをしながら死ぬのも嫌です。 私の『死にたい。消えたい。生きていたくない。』という感情は、自ら命を絶つという行為とは違くて、 『シャボン玉の
幸せってなんですか? 『幸せになりたい』 って言葉が呪文に聞こえてきて怖くなる時もあります。 誰かの言葉で 『幸せを手に入れるんじゃない 幸せを感じることのできる 心を手に入れるんだ』 という言葉があるんですがこれを聞いてどう思いましたか? 幸せって、初めは「今がすごく幸せ」って思ってもその幸せに慣れてしまうとそれ以下の出来事はもちろんその出来事では「幸せ」と思えなくなってしま