【ナラ社の時間#03】社会科の楽しさについて
こんにちは、ならんはです。
社会のことを話そうとずっと思っていたのですが、最近あまりできていなかったので、今後進んでいきたい道についても含めて言語化してみようと思います。かれこれ教育業界に約10年携わってきて、少しずつですがやりたいことが見つかってきたような気がするので、実現していけるようにノートにまとめてみようと考えついた次第です。
(参照)ナラ社の時間#01
やりたいことは「情報発信×人材育成」
もともと自己肯定感も承認欲求も強いわけではなく、自分の指導に自信があるわけではないですが、研鑽していき将来的には指導すべき内容などを発信していく立場や、授業(教材や問題も含め)を作っていく立場になってみたいと、入社後はより強く考えるようになりました。
入社前は自分の指導(または入試科目の指導で)目の前の生徒の成績をどう伸ばすかを考えていました。今もそれを忘れたわけでは決してないですが、入社して会社の一員という思いが強まったためか、社内の人材をどうやって強化していったらよいかという考えを抱くようになりました。
1番の課題は教材。具体的には教材そのものが指導スタイルや指導時間にマッチしていないことでした。もちろん自作の教材を使うこといがいに100%マッチすることはありませんから、授業に工夫をするという発想自体は間違ってないと思います。
あまり環境のせいにするのは好きではないのですが、教材がビミョーだと、どうしても「教材で」授業をするのではなく「教材を活用して」授業していくことが求められるわけです。そこは自然な発想として問題ないですが、でもそれって見方を変えれば、講師の力量に左右されちゃうし、過去問とか生徒のミスのパターンを熟知していて(経験によるもの)、上手く指導に活用できる軸がある人はいいと思いますが、トレーナー側としては放任すぎないか?と思うようになります。それもそれで自由に指導ができるという意味ではメリットかもしれませんが…
教材をどのように予習し、活用し、指導の品質を高めていくかどうかは、受け手側の工夫(見本となる人の授業を真似したり技を盗む従前のやり方)も必要ですが、発信側から伝えていき学ばせることも重要だと思うのです。
とはいっても、指導内容を制限するためのものではなく、むしろ毎回の授業でのゴールをよりわかりやすく設定し、伝えたい内容を明確にしておくことで、指導してみないと気づけないことを予習の段階で気づき、研鑽ができる仕掛けのものを作りたいと思ったわけです。
もともと会社の雰囲気としても「人を育てる」風潮になっていますし、さまざまな場面でもそれが特に実行されたり自らが率先して実行しやすい部署だったことも起因しているのでしょう。経験がなくてもやる気があればそれを乗り越えて(もちろん経験や知識を増やすことは大前提)いけるし、もちろん他にもたくさん注意すべきことはありますが、伝えたいという熱意は緊張やら経験を越えられると言いますからね。
さらに自分の研鑽が追いついていけば、発信する情報の価値や説得力も増していくことが可能になると思います。
秘伝のタレ注ぎ足し
ナラ社の時間第1回を書いているときから、頭の中で構想していたのは「(可能な限り)人に依存しない指導を実現するツール」でした。まあ簡単にいうと指導マニュアル的なものです。
(画像)指導マニュアル
もちろん教育である以上、人に依存することは当然ですしだからこそ教育というものがサービスとして成立するわけなので、100%人に依存しないことは難しいですが、それでも品質を高い状態でキープしながら、どんな新人の講師がやっても最低限のクオリティを担保できるものを考えました。
ただ、マニュアルという名前を使っている以上、「自由に授業できないのではないか」という懸念があると思います。そういうことを言う人は、マニュアルなどなくても指導できるのでそもそも使わないという選択肢でもいいわけです。教材は購入いただいているものなので使わないといけないけど、ツールは使わなくてもいいですからね。
なので、予習は自身でやっていただくとして、その補足的な役割だったり、自分の予習が間違っていないことを確認するツールとして使っていけるといいのかなと思いました。そのままマニュアルを読んで授業すると言っても、うまくできるとは考えていません。板書案はあるのでそれを書くだけなら誰でもできますが、枝葉の説明や雑談などは自分で言語化してわかりやすく説明できる準備をしておかないと、授業としては成立しないでしょう。
もしかしたらどの分野においてもそうかもしれませんが、既存のものを使う以上は使用者側の何かしらの工夫が必要になってくるのかもしれませんね。どう工夫するか考えていくところは人に委ねられてしまうところかもしれません。
文化や技術がより広い範囲で受け継がれていくためには、現物を見せながら言語化していき次の世代へと受け継ぐことが大切だと思います。この言語化という作業は、もしかしたら自分にはできる分野なのかもしれないと思いました。
あとは板書をよくお褒めいただくことが多いので、板書案を1枚絵でぱっと見せるだけでも指導イメージがつくのかなと思ったところもあります。
語弊だらけで恐縮ですが、いわゆる「天才型」の方々というのは、パフォーマンスの質が段違いに高いですし、いついかなるときも高水準のものを発揮していきます。それに対し、自分のような「非-天才型」は、パフォーマンスがあまり高くない分、自分の行動を言語化しそれを伝達できる力があると思っています。
自分がそこを強みにしているかどうかは微妙ですが、なるべく言語化し受け継いでいけるように努力している部分です。
社会科の本質は知識を活かすこと
それからもう一つ、授業でもマニュアル作成においても意識していることがあります。それは知識を入れることだけではないということ。これは、知識の詰め込みだけで完結すること以外の奥深いことまで教えてくれます。
そもそも知識の詰め込みをやめようっていうところから、都立入試をはじめとする思考力を問うものに移行し始めたわけですから、その背景を考えれば一目瞭然です。
ただ、まだまだ社会科の授業は知識の詰め込み型授業から脱却しきれていません。
学習者が学校で社会科という科目にふれ、社会に出て大人になったときに適切に物事を考え、適切に判断していくこと(自分で考えて決断をしていく)ができるようにするために、どう物事を捉えて行動するかというところにフォーカスがまだまだ当てられていないのも事実です。
その判断をする際に知識が必要な方が良いということであって、知識を蓄えることが全てではありません。
さまざまな情報から自分で取捨選択をしたり、自分が良いと思うものを適切に判断し、処理していく。そういう意味では、都立入試というのは良い教材なのかもしれません。
同時に、「知識の詰め込み的な授業にはしたくない」と言っているだけで、その本質がまだまだわかっていないことも多々ありますね。究極的には知識(教科書に載っている用語などを指す)がなくても、常識(教科書に載っていないが通底する物事の考え方や捉え方)だけでも社会の授業自体は成立しえますからね。
もちろん、ゴールが入試になってしまうと点数を最大限取る方法に走りがちなので難しい部分ではありますけどね。
(参照)知識と常識について
社会という科目は、花形となるような英語や算数・数学と違って地味でニッチな科目かもしれませんが、まだまだ指導法の改良や工夫をこらせる科目だと思っています。だからこそ、挑戦していきたいですし、新しい指導の可能性を秘めているという意味ではとても魅力的な分野といえるでしょう。
いかがでしたか?最後までご覧いただきありがとうございます。一応入社3年目になるので、やりたいことを見つけ新しい道を進んでみようかなと思っています。授業以外の部分もたくさん磨いていかないといけませんが、自分らしく活躍したいなって思ってます。
目標の月1更新もがんばらなきゃ…