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人権侵害と長時間労働と。。
世の中の流行に乗ってしまうのも癪だなとは思ううものの、人間の思考はどうしても入ってくる情報に左右される。ということは、今、世の中で多く会話されていることを自然と考えてしまうということで、それはきっと何かの縁でもある。だから、それに抗うのではなく、かといって流されるのでもなく、受けた情報を元に自分なりの考えを構築するのがいいのではないかと思う。
そうすることでこの先、また新たな情報のビッグウェーブが来たとき、今回考えたことと融合し、新たな思考を生むことができるのではないだろうか。
さて、前置きが長くなったが、某テレビ局とタレントの問題である。この問題は、つまるところ、以下の点に集約される。
・自分よりも立場の弱い人間に「感情」があることを認識せず、モノとして扱う
こういった行動をする人は、つまるところ、自分のこと(及び、自分に影響を与えうる事象)以外考えていないのである。その背景は様々だと思うが、
・出世競争を意識しすぎて、出世することが目的化し、出世して何を実現したいかを見失ってしまった(手段の目的化)
・もともと自分が楽しい、気持ちいい、ということ以外には興味がない(真の自己中)
・自分よりも立場が上の人の機嫌を損ねることで、今の自分の地位を失うのが怖い(喪失の恐怖)
・そういうものじゃない?という世間(業界)の常識の妄信(洗脳)
といったところが代表的なものとして考えられる。
しかし、たまに、今回の事例のように、「自分に影響を与えうる事象」と考えていなかった、(その人たちの分類では)取るに足らない雑魚が影響を与えてくる場合があり、その場合にはダメージコントロールすら考えていないので受け身が取れず、大惨事となる。
さて、題名にある通り、このような考え方が影響していることはたくさんある。
古くは、滅私奉公(丁稚)、切捨て御免、戦時中における桜花、特攻隊、そして近年見る、過労死、過労死に至らないまでも長時間労働の常態化。
斯く言う筆者の勤める会社においても、「今の業務は夜までやると考えれば、もう少し人員削減は可能?」というような、人権を無視した人件費削減策の検討が行われていたりする。
少し話は逸れるが、そもそも残業というのは、「非常事態が生じた際、残業することで一時的に生じた過大な業務を片付ける」ためにあるのであって、残業ありきで業務設計をしてはいけないのである。
近年は、週に40時間でも働きすぎだ、というような議論がされている中で、通常の勤務時間が上限、という前提のもとに業務設計をすべきなのである。
それを、労働基準法に定める残業時間の上限ぎりぎりで、というのすら建前で、実際にはそれを遥かに超える業務をさせる中で過小な業務時間申告をさせるのが当たり前となっている状況で、業務設計をすることで、「効率的な経営」を株主に訴えているのである。
これが人権無視でなくて何なのだろうか。
日本社会は、ある意味で蟻のような階級社会であり、女王アリ(企業でいうと社長、及び経営層)は絶対的な存在、不可侵な存在であり、それ以外は使い捨て可能な働きアリ(一般社員、中間管理職、及び、一部の上級管理職)で、女王アリのために死ぬこと(実際に過労死することもあるが、過重労働でプライベートを完全に失うことも含む)も厭わず働くべし、というものである。
これは、精神的な死も含まれており、それが今回のような性接待、上納に繋がっているのである。
これだけ大炎上しているのは、「これは性接待の問題、という刷り込みを世間にしなければ、いずれは日本社会の『滅私奉公』の文化に端を発するモノであり、それは長時間労働にも通ずるということがばれてしまう」という危機感によるところもあるのではないかと勘繰ってしまう。
今回の問題を個別の問題として片づけてしまうのは簡単である。某テレビ局が悪い、某大物タレントが悪い、某テレビ局の相談役が悪い、あそこの企業は特別な古い体質で今のガバナンス体制では考えられない事態だ、そう整理すればいい。
しかし、そう整理して今回の件を片付けたとしても、また別の問題は生じるだろう。なぜなら基本的に、人権軽視、の文化が日本社会にはあり、滅私奉公して当たり前、という空気が日本にはあるからである。
限界ぎりぎりまで働くのが当たり前、
余裕があるならまだ仕事できるよね、
家事育児がある人は仕方ない≒それ以外の余力は労働に投入してるよね、と、
一個人としての自由時間、休憩、余力の捻出、趣味、仕事に関係のない自己実現、については完全に無視した「常識」が世の中には蔓延し、多くの会社では当たり前のこととして受け入れられているだろう。
そこで一歩、立ち止まって考えてほしい。
余力をもって生きること、少し楽に生きること、の何がいけないのだろうか?と。