『アナ雪2』と「始まり」を描く力について
『アナと雪の女王2』にハマっている。この記事を書いている時点で7回、映画館に行って鑑賞している。資金と時間があればまだ行くかもしれない。私の見るところ、『アナ雪2』はディズニー映画の(今の段階での)最高傑作だと思うし、ディズニーの歴史における重要なターニングポイントとして記憶される作品になるのではないかと考えている。
『アナ雪』シリーズの作品(ショートムービー等も含む)を観ていて感じるのは、これらの作品の持つ「始まり」を描く力である。「始まり」を描くのは難しい。例えば『スター・ウォーズ』シリーズは、正義のジェダイがフォースの均衡を取り戻す物語だけれども、ジェダイなるものの権威と正当性は所与のものとして存在しており、アナキンやルークは、かつて存在していた権威と正当性を恢復したのであって、権威や正当性を作り出したのではない(同シリーズにはスピンオフ作品がやたらと多く、もしかするとジェダイの権威や正当性の始まりを描いた作品が存在している可能性はあるのだが、少なくとも私は知らない)。
『スター・ウォーズ』はよく「現代の神話」と呼ばれるし、神話的な要素があることは私も否定しない。けれども、神話とは、ある国や民族の始まりを描くものではなかったか。日本の神話は、「なぜ日本は天皇によって治められているのか」を語るものであり、天皇制という権威が正当性を有することを示すための物語だ。その意味で、『スター・ウォーズ』シリーズは、神話的要素を多く含んだ作品ではあるにしても、神話にとって何よりも重要な「始まり」を描いた物語であるとは言えない。
『アナ雪』はその点、まぎれもない「始まり」の物語だ。「家族の思い出」でも、アナとエルサが「家族の伝統」を創り出す様子が描かれていたけれども、『アナ雪2』ではさらに重要な「始まり」、すなわち、アレンデールとノーサルドラの争いを終わらせ、女王となったアナの支配に正当性と権威が付与される過程が描かれる。かつてアレンデールから不当な侵略を受けたノーサルドラも、(アナ女王の統治のもとに)アレンデールと友好的な関係を取り結ぶことに同意する。物語のラストでは、アレンデールはこれからも「アナとともに」続くことが言明される。『アナ雪』はアレンデールの正当な支配権が確立されるまでの経緯を語る、アレンデールの建国神話だ。
深く考えるまでもなく、アレンデールとはすなわちアメリカに違いない。アレンデールがかつて不当に攻撃をしかけた相手であるノーサルドラは、アメリカの先住民を表していると考えるのが自然だろう。つまるところ『アナ雪2』とは、アメリカ人のかつての先住民に対する蛮行が、現代アメリカ的なポリティカル・コレクトネスを徹底することによって清算され(アナは永年ディズニーが追求してきた理想的なヒロイン像を完璧に体現した姿であり、彼女の行動はすなわちアメリカ的ポリティカル・コレクトネスの実践である)、最終的には先住民たちもアメリカ的な秩序を受け入れ、(これまたアメリカ的な意味での)「愛によって結ばれ」る物語であると考えてよい。
アメリカには歴史がないとはよく言われるところであるけれども、これは正しくない。実際には、かの国には「歴史しかない」のだ。アメリカ合衆国は、建国以前には(いかなる意味でも)存在していなかったという不思議な国である。現在世界に存在している大多数の国家は、近代的な国民国家として組織されるよりも以前にその源流を求めることができ、歴史学的な検証の不可能な領域を伝説とか神話と呼ばれる物語によって補っている。アメリカには、建国の瞬間から文字に記された歴史があり、それ以前の歴史学的に検証不可能な時代が存在しない。アメリカ社会の正当性を保証する「神話」こそ、アメリカ社会が手に入れようとして決して手に入れることができない物語なのだ。そういう空白を、『アナ雪』のようなコンテンツが補完していると考えるのは穿った見方に過ぎるだろうか。
アメリカ流の独善的なポリティカル・コレクトネスによって、過去の犯罪は清算されたとみなし、近代的な科学技術を正しく用いれば自然界も(エルサが精霊たちを力ずくで屈服させたように)、人間の世界と調和させることが可能であると強弁し、あまつさえ、そんな思想をエンターテイメント作品として全世界に発信するアメリカ人の厚顔さを非難するのは簡単なことだけれども、かといって例えば日本人の過去に対する向き合い方が、アメリカ人のそれよりも誠実であるとは私は思わない。
日本神話には、熊襲とか土蜘蛛とか呼ばれる人々についての記述があるけれども、現代の日本人の大多数は彼らのことを知らない(「熊襲」を「くまそ」を読める大人がどれだけいるか)。熊襲にせよ土蜘蛛にせよ、要するに大和朝廷に従わなかった人々であり、天皇を中心とする政権は彼らを武力で屈服させたのである。アメリカ史における「インディアン」のような人々は日本にも確かに存在したのだし、そのことは他ならぬ大和朝廷の残した公的な記録の中に明示されているというのに、私たちはその過去を忘却している。
そこまで昔の話を持ち出すまでもなく、明治維新が「無血革命」だったと信じている人は驚くほど多いし、明治政府が北海道や沖縄に対してやったことは、紛れもない「侵略」「植民地化」であったという歴史的事実が私たちの日常生活の中で思い起こされることはほとんどない(ちなみに、朝鮮半島に対する日本の植民地支配は、朝鮮の人々にとっても深刻なトラウマだが、日本人にとっても天皇制を背景にした皇民化が明確に挫折した経験であるという意味で重大なトラウマなのだと思う)。
過去の蛮行を自分たちの社会が掲げる正義によって正当化することができると信じているのがアメリカ人であるとすれば、過去の蛮行の記憶そのものを忘れ去り、北海道も東北も沖縄も、神代の昔から「日本」の一部として平和的に天皇制の枠組みの中に置かれていたのだと思い込もうとしているのが日本人である。どちらの態度がより正しいのか、私には判断できない。私に言えるのは、私は結局のところ日本人なので、極限の状況では日本的な価値観を尊重するだろうという程度のことだけれども、それも別に日本的な歴史認識が、アメリカのそれよりも優れていると考えているからではない。
ディズニーだけが、アメリカの「神話」を生産する役割を果たしているのか、私はそれほど幅広く映画を観ているわけではないのでよくわからない。ただ、『アナ雪2』が見せた「始まり」を描く力の凄みは、歴史だけを持ち、「神話」を持つことができないアメリカ社会の暗い情熱に支えられているのだろうということは想像できる。アメリカ社会の正当性は、天皇制のように血統に支えられるものではなく、ポリティカル・コレクトネスを背景とする行動によって規定される。というより、行動によってしかアメリカは自らの正当性を立証しえない。『アナ雪』の秀逸さは、ポリティカル・コレクトネスという合理性を根拠として正当な権威を樹立する物語を描き出した点にある。
権威とか正当性というものは、通常、非合理的な何か(たとえば神)によって保証される。天皇になぜ権威があるのかについて、合理的な説明はなされない。合理的な説明は、合理的に否定される可能性を内包するからである。天皇は天皇だから敬うべきなのであるという以上の説明は必要ないのだし、説明するべきでもない。合理性と正当な権威なるものは非常に相性が悪い。
ポリティカル・コレクトネスとは、合理性に立脚する正義である。それをひとつの王朝の正当性に結び付けることに成功した『アナ雪2』は、ディズニーが、というよりも、アメリカ社会が追求してきた「神話」のひとつの完成形なのではないかと思う。
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