『ミノタウロスの皿』についての覚え書き

ただ死ぬだけなんて……なんのために生まれてきたのか、わからないじゃないの。―主人公に逃げるように誘われたミノアの台詞―

藤子・F・不二雄の短編、『ミノタウロスの皿』は、人間(に似た種族)が牛(に似た種族)の家畜として扱われる地球によく似た惑星に漂着した宇宙飛行士の視点を通して、人間中心的な価値観を批判し、相対化した作品としてよく知られています。
主人公の男は家畜として飼育されている美少女・ミノアに恋をしますが、彼女は4日後に迫った「ミノタウロスの大祭」の主役を飾る「ミノタウロスの皿」に選ばれた食用種で、大祭の場で民衆たちに食べられてしまうということを知ります。主人公は、牛が人を食べるという“残虐”な風習を改めさせるべく、その惑星の権力者を説得しようとしますが、牛たちは彼の言わんとする所をまるで理解しません。

この作品の有名な、藤子不二雄らしい皮肉の利いたラストシーンについては、読んだことのない人のためにここには書きません(ウィキペディアにネタバレが書かれているし、有名な作品なのであるいは私のnoteを読むような方はとっくにご存知かも知れませんが)。

この作品のテーマの一つは、「相手の立場で物を考える」ことの難しさです。牛が人を食べることの残虐さを主張する主人公は、「地球ではズン類(人類)はウス(牛)を食わんのですか?」というクリティカルな反論に対して「そんなことこのさい関係ないでしょ!!」と激高するばかりで、「相手の立場で物を考える」ことが全くできていないのですが、彼は相手が自分の立場で物を考えることを要求するばかりで、その逆のことをする必要性を全く理解しません。「言葉は通じるのに話は通じない」と、その惑星の「ズン類」たちを責めるばかりで、しかも自分の視点がいかに独善的なものであるかは最後まで自覚できないままなのです(読者だけはこの男の愚かさを最後に理解できる)。

ただ、今言ったような話は、『ミノタウロスの皿』の中心的な主題ではあっても、その全てではないように思います。この作品にはもう一つ、別な問題提起が内在しているように感じられるのです。注目すべきは主人公の男ではなく、彼に逃げるように説得されたときのミノアの態度です。
ミノアは「ミノタウロスの皿」に選ばれたことを誇りに思っています。死ぬことの恐怖は否定しないが、食用家畜として活け造りにされることは、彼女の生きる意味そのものなのですから、「ここにいると殺されてしまうから一緒に逃げよう」という男の誘いにも乗りません。乗る理由がない。

この惑星において、「ズン類」と「ウス」は強い信頼関係で結ばれています。ミノアを含む「ウス」の誰一人として、「ズン類」の食料としての自分の立場に疑問を抱くものはない。「ズン類」も彼らなりに「ウス」たちを大切にしていることが、作中のあらゆる描写からはっきりと理解できる。

主人公の男から見て、これは異常なことです。一方は自分が生きるため、更に言えば味覚をよりよく満足させるために美味しい「ウス」を食べようとする。食べられる側の「ウス」たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。私たちの社会では、食べる側と食べられる側が信頼関係で結ばれているという状況を想像しにくい。けれども、「ミノタウロスの皿」に選ばれた名誉を誇るミノアの言葉には、そのような常識では小揺るぎもしない説得力があります。なぜ、この惑星の「ズン類」と「ウス」との間には、このような関係が可能なのでしょうか。

「食べる」という行為は、相手の存在を、自分のために利用する行為の極致と言えます。ポルノ写真は「女性をモノ扱いしている」という理由で非難されますが、近代社会では、人間はモノとして扱われてはならないことになっている。まして、人間の存在それ自体を犠牲にして、自分の利益のために利用することなど許されるはずがなく、食人は私たちの社会において最も忌まわしい行為のひとつとされます。かの惑星における「ウス」は、主人公の男からみれば「人間であるはずなのにモノ扱いに甘んじる哀れな人々」に映るのでしょう。だから彼は不当に残虐な扱いをうける「ウス」たちが人間として扱われるべきことを主張するのです。

けれども、主人公の男の慈愛に満ちた言葉は、この惑星の住人には決して届かない。

なぜなら、「ウス」たちは、「ズン類」たちに愛されており、満たされているからです。「ズン類」たちはミノアを(私たちが理解するような意味での)単なる家畜とは見なしていません。ミノアは人格のある存在として尊重されているし、「ミノタウロスの大祭」がどのようなものかはわかりませんが、作品を読む限りそれは「ズン類」と「ウス」の関係を維持するための儀礼であるように思われます。この世界で、「ウス」は少なくとも単にモノとして消費される存在ではないのです。私たちが、私たちの目の届かない所で解体され、加工され、調理された牛肉を消費することと、「ズン類」たちがミノアの肉を食べることとは同列には扱えない。

かの惑星では、「ウス」たちを家畜として飼育すること(モノとして扱うこと)、「ズン類」と「ウス」たちとの間の友情を育むこと(人として尊重すること)は矛盾していないのです。というより、そのふたつは私たちの世界でも、実は矛盾しない。結婚相手を選ぶとき、パートナーが優れた容姿や収入を持っていることに価値を見いだすことと、パートナーの全人格を愛し、受け入れることは両立しうることだと私は思います。むしろ人は、大抵の局面においては社会の中で何らかの役割、すなわち効用を期待される「モノ」として現れるのであり、固有の人格を持った「人間」としてその存在を示すことができるのは実際にはごく限られた瞬間においてだけなのです。

地球からやってきた男は、人間が人間として尊重されて生きることと、人間がモノとして消費されることがある場合には両立し得るという事実を忘れています。それは、彼の好物がどのようにして彼の食卓まで運ばれてくるのか、考える必要のない環境で生活してきたことの結果であるのかもしれません。

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