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信長の鉄甲船は竜骨があった説
織田信長の鉄甲船
第二次木津川口の戦いで、織田信長は鉄の装甲を持つ大型船を投入し、毛利方の有力な水軍を撃退したという話はわりと有名である。
しかし、この鉄甲船の正体は謎に包まれている。戦い自体は史実で、新型の大型船を導入したのも事実なのだが、鉄甲船の具体的な内容、その大きさや鉄板の有無についてよく議論されるところである。
しかしこの件、織田軍の勝利について自分はちょっと違うところに注目してみようと思う。
それは「船の強度について」である。
・和船には竜骨がない
西洋の船には竜骨が備わっている。
竜骨は船底を縦に通す部材で、そこから肋骨のように板を張って船体を作る。そのため船底がV字型になっている。
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それに対して日本の船、和船は竜骨という構造が無く、船底がU字型になっており棚のように作る。
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和船の長所は
・船底が平らなので陸に揚げられ、浅い川なども航行できる。
・軽量で快速。
短所は
・建造に大量の木材を使う。
・強度が弱い。
日本は木材資源が豊富で川が多く、船を沿岸輸送だけに使う。そのため和船は独自の形態に進化して運用されてきた。
しかし、竜骨がないことで強度が弱く、外洋航海には向かず、海戦でも体当たり戦術などはできなかった。
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和船で最も大きな軍船が安宅(あたけ)船である。これも竜骨の無い和船構造である。
後で説明する鉄甲船も含めた大型日本船も全て安宅船の改良したものと現在の説ではされている。
・日本船の竜骨史
では、日本の船に西洋式の竜骨が導入されたのはいつだろう?
確実に判明しているのは江戸時代後期である。そして、歴史家によっては「江戸時代後期まで日本に竜骨のある船は無かった」と説明している。
江戸時代初期、幕府は諸藩の軍船建造を取り締まった。
1609年「大船建造の禁」が西国に発令され、1635年には全国化する。
これには"竜骨のある船を作ってはいけない"という命令も含まれていたという。
この禁令によって、日本は幕末まで海軍力の弱い国のままだったわけであるが、考えてみれば、「この禁令が出るまでは竜骨のある船はあった」と考えられるだろう。
では禁令が出るまでの徳川家康のいた江戸時代前半の大型船の造船について資料を抜き出して考えてみよう。
1604年 名称不明 80t 伊豆伊東で建造
1607年 サン・ブエナ・ベントゥーラ号 120t 伊豆伊東で建造
1613年 サン・ファン・バウティスタ号 500t 仙台藩月浦(石巻)で建造
1613年 仮称「ノアの箱舟」(駿府で目撃) 800t? 伊豆伊東?
1632年 安宅丸 1700t 伊豆伊東で建造
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この中で「安宅丸」は江戸幕府の軍船で銅板で装甲がされていた。
他の大型船も西洋人の技術力で太平洋を横断する為、または軍船として作られたものだろう。
徳川家康がウィリスム・アダムス(三浦按針)に作らせ、伊達政宗も西洋の技術を導入して建造した。安宅丸もそうである。
これらの軍船は、大航海時代に活躍したガレオン船といえるもの。そして、これらに竜骨が無かったとは到底考えられない。
ある説明には「これらの江戸初期の船は竜骨ではなく、構造材で強化していた」としていたが、外国人の技術者を招いて作るのにわざわざそんな回りくどい真似をするだろうか。
というわけで、この説では
江戸初期には竜骨のある船が建造されていたが、後の幕府の禁令と泰平の時代により、幕末まで忘れ去られた。
という前提で話を進める。
・鉄甲船
では、江戸初期に竜骨を用いた大型船があったとして、それらを導入したのは徳川家康が最初なのだろうか?
ここからが冒頭の鉄甲船である。
まず鉄甲船には織田信長の鉄甲船と豊臣秀吉の鉄甲船がある。
1578年 織田信長の鉄甲船
12月8日、第二次木津川口の戦いにおいて織田軍の九鬼嘉隆率いる鉄甲船6隻が、石山本願寺に補給しようとする毛利軍の村上水軍500隻と戦い、織田軍が勝利した。
この織田信長の鉄甲船に関しては
・大砲3門を積載
・3mmの装甲を施した?
・800人乗船?
等と言われており確定した情報が少ない。但し、大砲を3門以上搭載しているのは直接見て記録した人がいるので事実である。
1594年 豊臣秀吉の鉄甲船
豊臣秀吉は水面上を全て鉄の装甲を持った大型船を建造して披露した。こちらはフロイス日本史に明確に記載されている。
しかし、構造に欠陥があり沈没してしまったという。
秀吉の鉄甲船は海軍力の象徴として信長の鉄甲船を受けて製造されたと考えてよいだろう。
さて、この鉄甲船で世間でよく議論されるのが装甲の有無であるが、実際の所、そこは本質的な問題ではないのではないか?
本件において重要なのは
「戦いに勝つために、大砲が複数積載されていた大型船を作った」
という事実であろう。
織田信長は第二次木津川口の戦いの2年前、第一次木津川口の戦いで惨敗してしまった。
鉄甲船はこれに勝つために作られた船である。
では、どうやって勝つか?
信長は宣教師に良い方法を尋ねただろう。
すると、ポルトガル人なら誰しもが知っている戦例を教えるはずだ。
それがポルトガルが大勝した海戦、ディウ沖海戦である。
1509年 ディウ沖海戦
ポルトガルとアラビア海の大国(グジャラート朝、マムルーク朝、オスマン朝)連合軍が戦った海戦。
連合軍は大多数の小型船で攻撃を仕掛けたが、強力な大砲を備えたポルトガルの軍船による砲撃により、ポルトガルが大勝した。
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当時のポルトガルの軍船はガレオンよりも一回り小さいキャラックだが、100門近い大砲を備えていた。それが勝因になったことは言うまでもない。
第二次木津川口の海戦において、勝敗に帰結するのは、鉄甲船の装甲の有無が重要なのではなく大砲を複数積載したことが重要なわけである。
でも、ここでちょっと問題がある。
そもそも、強度の弱い和船に大砲をたくさん載せられるのか?
当時の大砲
フランキ砲 口径5~10cm 射程100~200メートル
カルバリン砲 口径8~15cm 射程600~1,800メートル
カノン砲 口径12~18cm 射程300~1,200メートル
※参考
石火矢 口径5~10cm 射程100~200メートル
大筒 口径10~15cm 射程200~300メートル
ディウ沖海戦でポルトガルが使用したのはフランキ砲、カルバリン砲、カノン砲である。
和船は構造的に衝撃に非常に脆い。
ポルトガル船が大砲を複数積めたのは、積載量が大きかったからではなく、大砲の発射に耐えうる強靭な船体を持っていたから。それは、竜骨を基準にして作った強靭な船体を製造する技術があったからである。
大砲1門だけなら和船に積載した事例はある。
北条軍と武田軍が戦った1580年の駿河湾沖海戦において、北条の伊豆水軍の安宅船は石火矢(いしびや)を1門備えていた。
つまり大型の和船であれば小型の口径5cm程度の大砲を備える事は可能である。
とはいえ、鉄甲船に積載された大砲はそれを見たポルトガル人が驚愕するほどのサイズであった。それに先のディウ沖海戦の事例のように、戦闘で勝利できるだけの大砲を積まなければ意味がない。
しかし、それだけの数とサイズの砲を積んでは和船では船体の強度が足りない。衝撃と反動で船が壊れてしまう。
試しにチャットGPTに計算させてみたところ、安宅船であれば、積めたとしても石火矢程度、連射は無理、という状態である。
これでは戦争に勝てない。
・竜骨船の建造は可能か?
竜骨という構造は最先端技術というわけではない。伊達政宗も2年でサン・ファン・バウティスタを建造している。徳川家康も数年程度の期間でガレオンを建造している。
第一次木津川口の海戦の敗戦からちょうど2年、新たに建造する船として、竜骨を備えて構造強化し、大砲を多数備えた船を作ることは時間的にも物理的に可能である。
というかむしろ、この戦いの勝利の本質はそこにあったのではないか。
つまり、織田信長が日本で最初に竜骨ある船を導入し、豊臣秀吉がさらに進化させて(失敗して沈没したらしいけど)、徳川家康が長期運用して実用化した。
日本史で、日本船に竜骨を導入した時期を、いつ? 誰が? どうして? という必要な理由で考えるならば、織田信長の鉄甲船が妥当である。
その後、徳川家康が禁令を出して幕府以外に作らせないようにした、という方が歴史的に必然の流れだろう。