娘の進路から自由を考える
志望校は自由に選べない
本当の意味で高校受験の志望校を自分で客観的に考えられる中学生はどれほどいるのだろうか。
自分や我が子を見ていて思うのは、そこまで受験に思い入れがあるタイプでなければ、自分の学力に合った学校をというよりは、楽して入れそうな学校を選ぶのが一般的なような気がするし、それが正解だとも思う。
それって、自由に選んだと言えるのか!?
自分に合ったものを選ぶということと、自由に選ぶということは似ているようで、ニュアンスが違う。
Aという要素とBという要素を何らかの目的のために照らし合わせた時点で、そこには完全な自由なんてものは存在せずに、ただそれらしい何か、調和というものが横たわっている。
調和と自由は相反するのか!?
とはいえ、アンマッチな結果のみが自由としての結果というのも乱暴なような気がする。
それすらも、アンマッチが自由の現れであるという拘束があり、自由から程遠くなるように感じる。
自由というものには、調和が内包されなければならない。
喉がカラカラに乾いて、何か飲み物を要求した時に、目の前に差し出された湯呑み茶碗に牛乳が入っているのを眺めた時の感覚というものが、この世の中ではとても重要だ。
調和を考え、選べることが自由
無限、または、多くの選択肢から何でも選べることが自由なのではなく、その環境に適合できるものが何かを考えて選べることが自由であり、その考えの軸になる指針となるのが、調和だということなんだろう。
なので、ウチの娘の進路も学力や適性を鑑みて、消去法的に選んだとしても、数ある高校の中から自由に選んだことになると思うと感慨深い。