「浮気しないで」という祈り、あるいは呪い

よく聞く言葉だ。
したとか。されたとか。
聞く度にあまりに不毛な論争だと思う。
そもそも気が浮つくことの何がいけないのか。
言いたいことはわかる。
自分だけ見ていてほしい、ほかの人になびかないでほしい。
そういう欲はおそらく誰にでもある。
思うことは自由だし、表明してもしなくてもいい。
表明されて苦言を呈するのも好きにすればいい。
そもそも何をもって浮気とするのか、定義に個人差が表れすぎるものを丁重に扱わねばならない風潮にもどうかと思ってしまう。


私はそんなことで争いたくないからしないだけで、しても構わないと言う相手なら余裕でする。
恋人との関係に満足していたとしてもだ。
満足していないならその時点で別れているように思う。

2人で出かけるのは普通として、場所と時間と気分さえ揃えば後ろめたさや罪悪を感じることなくセックスもするだろう。

自然なことだと思う。

性別に関わらず、職場にいる人をちょっといいなと思うことや久々に会った友人が垢抜けていて少し見る目が変わったなんてことは、そんなに珍しいことではない。

浮気を気分が浮つくことだとするなら、そう感じた時点で浮気である。そういう気持ちのことを浮ついたと言わないなら何だと言うのか教えてほしい。

そういう相手と関係をもっていないとき、きっと私たちは友だちと呼ぶ。
関係をもったとして、付き合うほどでは無いと判断したときもそうだ。


私はいつも「浮気しないで」と言われる度に禁欲を強制されている気分になる。
自分はしないと自信をもって言い切ることはいいことだが、言葉を全面的に信用できるほど心がきれいではない。
こちら側からどんなに潔白に見えたとしても心の隅ではしている可能性を捨てないでおくようにしている。
恋人以外とセックスをすることに不寛容な世間から白い目で見られることを恐れてか、していてもしていないと答える人が多いからだ。

大抵それに気づくけれど、ちゃんと確信をもたせてくれないでいる人もいるので、さすがだなと思う。
私がショックを受けるのはそういうタイプだ。
私が悲しんだり怒ったりするのを避けようとしたと言われるが、信用を落とすのは言動の不一致が起きたときだと何故わかってくれないのだろうか。

するならすると言ってくれれば私もそのように振る舞うし、失望しないで済む。
私に他人と関係をもたせたくないがために信用に足るよう動いた結果がそれなら本末転倒だ。
だいたい、自分勝手にも程がある。
病のリスクがとか独占欲が満たされないだとか、そんなのはこちらとて同じだ。
人の行動に制限をかける嘆願をするなら同じように自分にも課すべきだ。
自分が課されたくないものを人に課そうとするな。

自分にも人にも課したいタイプの人間は泣くのをやめて、価値観の似たような人間を探すといい。

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