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性別は決めるべきか

自分の性別は?と聞かれて答えられるだろうか。
私はすぐに答えることができない。

小学1年生、初めての参観日。
通学途中で人生初の単独交通事故をし、手術することになった私は、入院中の暇つぶしになりそうなおもちゃを買ってくれるという祖母と一緒に買い物へ行った。

祖母の「ほしいものなら、なんでも買うよ」という言葉を鵜呑みにしておもちゃ売り場を歩き、めぼしいおもちゃを持って、私は祖母のもとへ戻った。

祖母はおもちゃを見るなり、「どこから持ってきたの、それ」と少し険しい顔をして言った。

持ってきたおもちゃは1つである。
私は素直に、自分が今来たほうを指さして答えた。
祖母の眉間にはしわが刻まれた。

「それは男の子用のおもちゃでしょ?あなたは女の子なんだから、そういうおもちゃで遊んではいけないの、戻してきなさい」

そして、母が適当に選んだおもちゃを与えられることになった。
私は退院しても、入院前のこのやりとりを忘れることができなかった。

以来、私は祖母の前では"女の子っぽい"ものを選んだりほしがったりするように努めた。

学校では学年が進むにつれて女、男の区別がはっきりされるようになり、会話の中でも"女っぽい""男っぽい"が顕著に表れるようになった。
男子も女子も同性のみと話すようになっていき、しない人は仲間外れにされる傾向があった。
女の子と話すよりも男の子と話すほうが同性と話している感じがしていた私は、自分の性別についてよく考えるようになった。

考えるうちに「自分は女ではない」と思うようになった。
この世に女か男かしかないなら男だ。

性転換手術をしたりホルモンを打ったりすることも考えた。
声が低くなり筋肉質になったとしても、男として生まれた人のように子どもを作ることはできない。
見かけが変わって男のようになれても、"生まれた時から男"のようにはなれない。
身も心も男になりたい私にとっては手術もホルモンも、女の身体で生きることと大して変わらない。

高校生になって、初めてLGBTQIA+という言葉に出会った。

この言葉は私にとって革命だった。
今まで男か女かしかなかったけれど、そうではない性もあるとわかって心が軽くなった。

男になりたいけれど、上記の理由で社会的には女として生きていくことを選んでいる私はどこに当てはまるのかよくわからないけれど、一番しっくりくるのはQにあたるクエスチョニングだ。

性別を決めないでおく、という性もあるならそれを選びたい。
ただ、「あなたは女じゃん」と言われたり女扱いをされたりしたら微妙な気分になることは変わらない。

私はどこかに当てはまりたかった。

女とは思っていない、ということを口にしたときに
「じゃあ、男なの?」
と聞かれたり、

男でもないよ(なりたいけど男にはなれないよ)と答えると、不思議そうな顔で「わからないなら女じゃないの?」
と言われたりして、かんたんに私のことを説明できる言葉が欲しくなることが幾度もあったからだ。

私はここに分類されるんだと言ってしまえば、理解しなくとも納得してくれる。その可能性は上がる。

だけども、自分をどこかにカテゴライズしなくてはいけない、なんてことはないはずだ。
相変わらず世間は男か女の二択で話をすることが多いけれど、そうじゃなくていい。
決めようとすることで悩みの種になるなら、あえて決めないという選択もできる。
性別は決めるべきという決まりは人の意識と手続き以外のどこにもないのだ。

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