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空飛ぶハンバーガー。

ついさっきのこと。
成層圏までむき出しのハンバーガーを飛ばして
落下後の味を確かめようと試みたクリエイターの動画。
途中でハンバーガーはすっとんでいってしまったのだけれど
世界のどこかでは
ハンバーガーが、もしくはハンバーグが
頭上に降ってきた人がいたかもしれないのだ。
幸か不幸か。

そうやって
万が一にもあり得ないような事態すら
起こりうるくらい先が見通せないのがVUCAなのかな。

運命という言葉は、
一体誰が煌びやかなものにしたのだろう。
運命の恋が、
本の中にしかないのかと嘆いた歌もあったが
運命はどれもいい風の吹き回しのように
書かれている気がするんだ。

私にとっての運命は、もっぱら“いいもの”じゃない。
逃れたくても逃れられなくて、
自分の意思は100反抗しているのにそれが許されなくて。
運命に歯向かう選択が、選択肢としてはあっても、
環境とか責任とかで
運命の外堀はすでに埋まっているから
取ることのできない選択で。
変えられないから、運命。
それはみんな一緒なのかな。

「一緒に逃げようよって言ったら、逃げてくれる?」
逃げたい。
でも逃げられないのは、どうしてだろう。
懸念してることは、
どれも自分が気にするようなことじゃないはずだ。
でも。
この責任感や罪悪感みたいなものを植え付けたのは
いったい誰だろうね。
私の運命を握った人だ。
だから、風になんて吹かれたくないんだ。
何も始まらない。

親を好きだったかというと、多分同情し続けてただけなんだと思う。
小さい頃からずっと、というわけではないだろう。
同情できるくらいの知性がついてからは、ずっと。
私は、親にとってそんな相手だったんだ。
自分の苦しみを受け入れてくれる、寄り添ってくれる。
そんな相手に。

感謝はしている。
些細なことでいえば、毎日お弁当があったこと。
食には困らなかったこと。
本当は些細でもなんでもない。
生きたかったかどうかは別として、生きるという選択ができる状態をつくってくれたことに感謝している。
大きなことで言えば、今の生活。
大学院までこれている。
こうして余暇に書き連ねることだって。
それでも、歪んだ愛の呪縛に
その運命に逆らえる日はきっとこない。

自分がされて嫌なことは他人にしちゃいけない。
これは正しい教育にみえて少し危ういところがある。

自分がされて嫌なことかどうか、鈍いと気付けないのだ。
それをされた時のことを覚えているか?
嫌だったと感じたか?
何が嫌だったか理解できたか?
嫌だったはずなのに変えられた価値観、忘れた価値観。
そもそも嫌ということがわからなかったりもするだろう。
そんな大人がごまんといる。
そういう人ほど、目を見て話すんだ。
目を見て逸らさないんだ。
気味が悪いね。

それもこれも、
私が嫌だったって感じたことも
相手にそれが伝わらないことも
私が理解してもらおうと動かないことも
きっと輪廻だ。
ただ、それが虚のように
運命なんてものにはなって欲しくない。
諦めるという選択肢を取ろうとしてとっている今と
それしか実質取れないことでは
全然違うから。

親を憎めないのも運命なのかな。
それも含めて親子だって言った人もいたね。
ケータイ、海に投げ捨てなきゃかな。
本当は一里もない海に。

寒いと鬱が加速するね。
せいしんか、おうちにきてくれ。
𝘳𝘦𝘪


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