遊説×乙女6
一年後、穀雨の季節がまた巡ってきた。
今、紅花の目の前には、紅紫色に染まったレンゲ畑が広がっている。仮面を通してそれを眺めながら、紅花は太子と交わしたやりとりを思い返していた。
「してそなた、どうするつもりだ?」
どうする、とは、恵文君をどうやって王位につけ、今や孝公すら差し置いて権力を握る商鞅を退けるかという問いだった。
恵文君には疾(しつ)という名の異母弟がいる。
二人の仲は悪くなかったが、疾の母親は韓の王族の娘だった。後ろ楯もさながら、出来もいいので、兄より弟を太子に望む声もある。
商鞅もまた、弟の疾を父親である孝公に推す一派のひとりだった。
「そのことですが、殿下。こんな言葉がございます。『人を得るものは起こり、人を失うものは崩れる』と。宰相の弱点は、人の恨みをおおいに買っている点ではないでしょうか。性急な改革に伴う苛烈な罰は、渭水(いすい)を血で真っ赤に染めたと、噂になっております。徳を恃(たの)むものは栄えますが、力を恃むものは亡びると申します。私はこれから宰相が罰した者達、それから陥れた者達を訪ね、私の策に加担するよう説得して参ります。一年の後、必ずや殿下を公位につけ、政の柄(え)をその手にお渡ししてみせましょう」
この一年、紅花は、宰相によって裁かれ鼻を削がれた公族達を説得し、宰相に騙し討ちにされ殺された魏の公子卯(う)に繋がる者達とも接触を試みてきた。
そして、春。商鞅が治める商於(しょうお)の地に至ってついに、策は最終段階に入っている。
レンゲ畑で行われているのは養蜂だった。
孝公は壮年に至って病を患うようになり、宰相が蜂蜜を献上するようになったのは知られた話だ。当初、石蜜(野生の蜂蜜)を献上していたのが、孝公の病状に効いたとあって、宰相は領地にて養蜂を行うようになった。
作業にあたっているのは宰相の私属(どれい)であり、いずれも法を犯した本人か、その家族達だ。蜂の扱いはある程度調べられ、採集、分房、防疫法など、確立してはいるのだろう。
けれどだからといって、蜂に刺されぬわけではない。作業は過酷を極め、そこに商鞅に対する恨みが生まれておかしくなかった。
紅花は奴隷達の中で一番痩せ細り、奴隷の中でも見下され、蔑まれているだろう者を素早く探す。
すぐに見つかった。
その者は、燻煙(くんえん)の作業をさせられていた。採取の前に蜂を不活性化させる燻煙は、とかく煙が目にしみる。また、逃げ出してきた蜂に刺される為、誰もが嫌がる作業である。
作業にあたっていた奴隷の男は嫌な汗をかいていて、病を患っているのかも知れなかった。
煙のせいで周囲に人が居ないのを見てとり、紅花は奴隷に声をかけた。
仮面をつけた怪しい人物に唐突に声をかけられ、奴隷の男は怪訝な顔で紅花を見る。紅花は素早く懐から砂糖水を取り出すと、男を労いながらそれを勧めた。戸惑いながらも、煙に喉を焼かれていた男はそれを受け取り、結果飲み干す。あまりの美味に男は一瞬笑顔になった。
「あなたは一体……?」
聞かれ、紅花は賭けに出た。
二年前、商鞅が魏の公子を騙し討ちにし、大勝したのち、魏の人々を奴隷として秦に連れ帰ったことは誰もが知るところだ。
奴隷達の中で力関係が生まれるのなら、蔑まれるのは他国の人間。
ならば、と思った。
「私は魏の人間にございます。先の戦の際、捕縛され、奴隷として秦に連れて来られました。秦の貴族の家妓となり果てましたが、顔を害され、捨てられた次第。こうなったのもすべては秦の宰相、商鞅がため。恨みに燃えてこの地へやって参りましたところ、貴方が苦しまれておりましたので……。貴方は私と同じ、魏の方ではございませんか?」
尋ねれば、男は呆けた後、静かに涙を流す。
「いかにもわたしは魏の者です。商鞅めが公子様を騙すかたちで友情を裏切り、伏せていた兵に公子様を斬殺させたあの日、わたしもその場におりました。そして今は憎き奴の領地で奴隷として、秦の罪人にすら蔑まれ、こき使われて鞭打たれております」
男はそう言って俯き、喉を震わせる。紅花は男の手を取った。
「あの場に居た方とは……。元はさぞかし良家の勇士と存じます。それが敵地でこの仕打ちとは……。お気持ちお察し致します」
紅花は握るその手に力を込める。男は弱々しく頷いた。
「……わたしは今、病を患っております。しかしこのままこの地で、仇に一矢も報いずに、死にゆくことが忍びないのです」
「――ならば一矢を報いませぬか?」
男が驚いて紅花を見る。
「貴方になら可能です。むしろ貴方にしか出来ぬことです。時を要するかも知れませんが、ひとつ、策があります。憎き宰相商鞅と、それから秦の孝公をも亡ぼせる策です」
男の目に一瞬光が宿ったのを、紅花は見逃さなかった。
「いずれこのまま散る命なら、私に賭けてみませんか?」
——孝公が死んだ。
大暑を迎えたある晩のことだ。
夕餉の後、突如として嘔吐し、呼気が止まっての一瞬のことだった。
その死に様は恐ろしく、毒殺が噂されたが、毒味役が無事なこと、孝公には持病があったことなどから、詮なき噂と黙殺された。
そうして、恵文君が領袖(りょうしゅう)の座についた。
「間接的に父を殺した者を褒めるのはおかしいが……。良くやってくれたと言わざるを得まい。次はどうやって奴を排する?」
人払いした恵文君の私室にて、紅花は主と向き合っていた。尋ねられ、口を開く。
「そうですね。ではお子を作ることに励まれませ」
そう言えば、恵文君は目を丸くして紅花を見た。
「それがどうして商鞅を退けることに繋がるのだ? たしかにそれも急務ではある。だが……」
「殿下。宰相は後ろ楯である孝公を失って、不安になっております。いまだ権力はその手にあれど、機会があれば必ずや、殿下の機嫌を取ろうとするはず。そこを突くのです」
紅花の言葉に主は神妙な顔になる。
「そこでですが、殿下にはいったん死地をさまよって頂きます」
しかし、続いた言葉に端正な顔を引きつらせて、どういうことだと声を荒げた。
「今日はわたくしの為にこのような宴を催して頂き、大変光栄に存じます」
白々しい、と思いつつ、恵文君はぐっと堪える。
己が求めた奇計の士の助言に従い、宰相との私的な宴を催すことになったのは、死ねと言われた七日後のことだった。
(それにしても、一度シネとはあの女――)
苛立つ腹を抑えながら、恵文君は酒をあおる。
「そなたとは、一度こうして話をせねばと思っていた。そなたを得て国は富み、夷狄と蔑まれていたこの国は、他国に認められるところとなった」
恵文君の言葉に、宰相は満足げな笑みを浮かべた。その笑みが恵文君の心を更に苛立たせるが、今少しの辛抱と我慢する。
「滅相もございません。全てはわたくしを用いて下さった、先の公の寛容さゆえ。至らぬ身ではございますが、引き続き身を粉にして仕えたいと存じます」
見え透いた追従に頷いたところで、
「ところで、公におかれましては、最近頻繁に後宮でお過ごしのご様子。よろしければこちらを」
手を叩いた宰相の元に女官が何かを運んでくる。
(来たな)
わかっていても恵文君は内心身震いせずには居られない。
仮面の遊説家が父を毒殺するのに使ったのは、商鞅の領地から献上された蜂の蜜だった。
レンゲではなく附子(ぶす)の花蜜を採集した蜂の蜜を、それと知らせず献上させたのだ。
毒味役が無事だったのは、持病がなかった為に過ぎない。否、希少で高価な蜂蜜を、父が惜しんで毒味させなかったのだ。
宰相が恵文君に差し出したのは、近頃流行りの『密餌(みつじ)』という名の菓子だった。
餅米粉と小麦粉に蜂蜜を混ぜて揚げ、その上からたっぷりと、蜜を垂らした菓子である。
附子より毒性の低いホツツジの蜜とは聞いていたが、この量では不安になる。
(必ず生きて、後で嫌味を言ってやる……!)
倒れるのは毒味役では駄目なのか、何度も何度も確認したが、仮面をつけた奇計の士は、その都度強く首を振った。
曰く、これは見せ物なのだと。そうして、恵文君が倒れることに意味がある、とのたまった。
仮面の下の女の顔が、実は笑っているのでは、と思いながらも、公になったばかりの彼は、それを呑むしかなかったのだ。
「蜂の蜜は万病に効くと申しますが、精力もつくそうです。どうぞお召し上がり下さい」
恵文君は覚悟を決めた。毒味を断り、平静を装って、密餌に手をつけ口に運ぶ。
皿が空になる頃には、白目を剥いて倒れていた。
7に続く