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遊説×乙女8

 まどろみの中、紅花は戦渦の村にいた。
 あちらこちらで悲鳴があがり、煤煙が立ち上っては行く手を阻む。目を閉じて煤塵をやり過ごしたのち、まぶたを開けば、傍らに居た妹は忽然と消えていた。
 紅花は焦ってその名を呼ぶ。


「碧月(ビーユエ)、碧月――っ」


 ごう、と突風に煽られた炎が噴き、紅花の前髪を焼いた。

 その炎を越えた先に、女の細い後ろ姿が見える。身につけている衣服は煌びやかなものだったが、妹だという確信があった。紅花が間違えるはずがない。


「碧月……っ」


 刹那、妹が振り返った。

 ほっそりとした顔はやつれ、彼女の苦労を思わせた。
 こぼれ落ちた豪奢なかんざしの下の表情は、哀しげに曇っている。小さな唇が開いて、何か、話しかけられた。


「何……っ。聴こえない……っ」
 妹の声は儚くて、炎の音に掻き消されてしまう。


「待ってて! 今そっちに行く、から……っ!」


 と言いながらも、飛び越えられるものではないことはわかっている。妹が、その細い指先を自身の喉に当て、とんとん、と叩いた。


「え? なに……っ?」


 大きな声を上げた紅花に、妹は小さな口をめいっぱい開く。そこには、あるべきものが無かった。


「――っ」
 妹は鼻を削がれたのではなかったのか。

 噂では、碧月の美しい声を望んで、楚王は妹を召し上げたという。ならば他の寵姫が仕組んで損わせるは、舌。


 妹がふいに口を閉じた。つい、と紅花を指差す。指先が指し示しているのは紅花の喉、だった。


「え……?」


 最後に、妹は微笑んだ。花の蕾がゆっくりと、咲き綻ぶような笑顔だった。



 目覚める前、紅花の心に浮かんだのは、死者は語る言葉を持たない、というものだった。


 語りたい言葉があったとしても、死はすべてを奪いゆく。
 妹が語りたかった言葉はいったい何なのだろう。父が、母が、語りたかった言葉は、何だったのだろう。


(私の語る言葉は、皆が語りたくて語れなかった言葉を、願いを、語れているんだろうか――……)


 舌を斬られた妹が、最後に指差した喉を紅花は両手で覆った。


「あ、ああ、あ……?」
 声を出し、そして驚く。

 紅花の喉から出てきたのは、聴き慣れたしゃがれた声ではなかった。


「どうして……」
 鶯のように美しい声が、自分の口から出てきたことに紅花は驚く。


 けれど一拍置いて、ひとつの答えに辿り着いた。


 最後に紅花に笑いかけた妹。碧月は、言葉の力で戦を止める夢を紅花に託していた、と言った淳于(じゅんう)。

 それから、碧月の語りたかった言葉――。


(そうか。わかった。わかったよ、碧月。一緒に行こう。碧月が語りたかった言葉を、叶えたかった世界を、一緒に叶えよう)


 それは紅花の、姉妹二人の夢だから。


 決意して、紅花は寝台から起き上がる。

 伎女の一人が呼びに来たので、紅花は身なりを整え、仮面を付けた。



「『土地などいらぬ。たった一人の首が欲しい』」


 他国からきた冊(てがみ)に目を通していた王が、唐突に声に出し、一文を読んだ。

 登庁し、朝儀に出た紅花を待っていたのは、約束を反故にされ、怒り狂った楚王からの冊(てがみ)だった。


 王は端正な顔を上げ、跪いた仮面の遊説家、紅花を挑発するように見る。


「楚王は、そなたの死を望んでおる」


 人払いのされた咸陽宮(かんようきゅう)の龍椅(りゅうき)の間には、今、王と紅花、それからわずかな警備の兵しかいない。

 朝議の後、この場に残るよう言われた時から悪い予感はしていた。


(我が王は、愉しんでおられる……)


 そういう方だ、わかっていた。

 そう思いつつ、仮面の下の紅花の顔は、やはり複雑な表情を浮かべずにはいられない。信用を得ても、信頼はされていない。いくら手柄をあげたとて、この王にとって未だ紅花の命など、蟻にも等しい。まったく難儀な男だと、紅花は思う。


「宰相よ。さてどうやって切り抜ける? そなたにどんな策がある? 今度こそはさすがのそなたも、もの言わぬ屍体となり果てるのか?」


 ケタケタと嗤う王の顔に浮かぶは愉悦。

 このような主に仕えるなど、虎の口の中で過ごすようなものだと、誰もが囁き、心配する。けれど不思議とこの酷薄さが心地良い。ぐつぐつと滾(たぎ)る私情を清らに冷ましてくれる。


「王よ。此度も無事に行き、そして戻ってみせましょう」


 策があると?、と言いかけた王にそう返した。

 恵文王は恐ろしい王だ。一歩誤れば首を斬られる危険が常にちりけもと(※首筋)を焦がす。

 しかし、だからこそ仕え甲斐があるとも言える。変わり者の彼だからこそ、身分も性も素性も問わず、登用するのだから。


「何を不気味に嗤っている」


 問われ、仮面下の表情を、見透かされていたことに少し驚く。声が踊っていたのだろうか。紅花は王に、口だけの謝罪をした。王も愉しんでいたが、紅花も愉しんでいる。


 これが嗤わずにいられようか。

 機は熟した。

 紅花には、冊の送り主が自身の首を望んできたことよりも、たった一つの村を焼いたことが恨めしい。


(私は生きて必ず戻ってくる。そしてかの名を暗君として、史書に永劫刻んでやる!)


 さて宰相は、王に出立の挨拶をすると、一つ叩頭をして国を発った。
 


 騙されたことに気付いた楚王が、紅花の首を要求してきたのは都合が良かった。
 これで戦による方法ではなく、堂々と楚王の城へと入城できる。
 碧月を陥れた寵姫の名前も既に調べがついていた。


(鄭袖(ていしゅう)という女、せいぜい利用させて貰う)


 嫉妬深い側室なら、王の寵愛を失うことを、もっとも恐怖することだろう。楚王はまた、女の願いに弱いと聞く。女の恐怖と依存心、それから男の欲望と愚かさ。


(策を成すのに十分だ――)


9へ続く

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