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遊説×乙女7

「良い見せ物になりました」


 十日の後、床から身を起こした恵文君に、紅花はそう言って彼の行動を労った。
 主はいまだ蒼ざめた顔で、無言のまま紅花を睨む。恨まれても仕方ない。


 しかしその効果は絶大だった。


 味方につけていた公族たちが、宰相が謀反を企て、恵文君を毒殺しようとしたと騒ぎ立てたのだ。


先の王を毒殺したのも、思い上がった宰相だと添えて。


 先頭に立ったのは、かつて商鞅に裁かれ、鼻を削がれ、額に黥を刻まれた公子や公孫たちだった。

 病床の恵文君の名において捕吏を出動させるに至り、焦った宰相は魏に逃げた。

 紅花の元にその知らせが入ったのが昨晩のこと。
 今頃は、紅花が接触した魏の公族から、恵文君を毒殺しようとしたのが商鞅ならば、魏に匿ってやってもいいと、持ち掛けられていることだろう。


(それが罠とも知らずに、な)


 あと少しの辛抱です、と紅花は主人を慰めた。
 げっそりとした恵文君から返事は返ってこない。けれど本当にあと少しだ。
 宰相が紅花の仕掛けた罠にかかるかどうかは分からなかったが、恨みを抱いた魏の人々に、追い返されるのは必定で、時間の問題だ。



 商鞅(しょうおう)は珍しく、取り乱していた。


 秦国から逃げ出したのは、冷静さをかいた行動だったと後悔している。
 これではまるで、自らがその罪を認めてしまったと同じことだ。

 しかし、そうせざるを得ないほど、公族たちの団結は固く、また商鞅を糾弾する動きも早かった。

 かつて、幼い太子の後ろで自分の顔色を窺うばかりであった弱気な者たちとは思えなかった。もちろん、刑に処された恨みもあるだろう。しかし恨みで発奮するような輩なら、とっくにそうしていたはずだ。


(それがどうして今頃になって――)


 商鞅は首をひねった。恵文君にしてもそうだ。

 商鞅の知る太子は、刻んでやった鯨(いれずみ)に相応しい、陰気で大人しい少年だった。

 孝公が国をあげて軍事を奨励した為、武芸に励んでいると聞いていたが、母親似の美貌には、商鞅が禁止した詩歌の方が似合っている。父の孝公が亡くなるまで、特に目立った蛮行も功績もなかったが、それゆえに商鞅は彼を危険視していなかった。


 否――、自身の功績に驕り、その地位が揺るぐことなど、想像すらもしていなかったのだ。


そこで商鞅は函谷関(かんこくかん)に差し掛かる辺りの宿場で味わった屈辱を思い出した。


 宿の主人に旅券のないことを咎められ、商鞅は、一国の宰相という立場にありながら、野営をする羽目に陥ったのだ。実は旅券はあった。けれど出すことが出来なかったのだ。


 恵文君が、秦国中の主な宿場に、宰相を謀反人と伝えた上で、宰相を見つけたものには褒賞を出すと触れをだしたからだった。密告を奨励し、国家が与える褒賞の確実さを教え、旅券のない者は宿に泊まれぬよう、法を整備してきたのは他でもない商君だった。


(まさか――恵文君はすべてわかってやったというのか?)


 そう考えるとすべてがしっくりくるのは何故だろう。しかし、あの恵文君にそんな知恵は……。


 そこで唐突に閃いた。

 自分と同じ奇計の士を、新たな公は得たのではないか――と。


 紅花の読み通り、ほどなく商鞅は魏から秦へと戻ってきた。送り返されたといった方がいいか。
 追い詰められて、彼はついに封地で私兵を挙げ、北方を攻めたが、ほどなく鎮圧されてしまう。


 捕縛された宰相は、回復した恵文君の御前で裁かれることになった。
 紅花が仕掛けた罠である、公殺しを認める冊(てがみ)を証左として。


 かくして宰相は見せしめの為、市中にて車裂きの刑に処された。


 宰相は死の直前、己が定めた法の厳しさを嘆いたと、死後人々の噂にのぼった。



 商鞅が誅殺されて七日の後。
 恵文君に付き従って朝儀に現れた紅花を見て、臣下の集まる龍椅(りゅうき)の間はおおいにざわついていた。


 それもそのはず。

 墨一色の深衣に嗤う老人の仮面をつけた、年も性別もわからぬ奇妙な人物が突然降って湧いたのだ。

 その上、恵文君が、紅花を謀反鎮圧の功労者として紹介したのだから、旧臣たちが驚いたのも無理はない。遊説家として、また、国の正式な相談役として、日の目を見た紅花だったが、心は既にここにはなかった。


(碧月、待ってて。あと少し、もう少しだから――)


 楚の後宮には人を送って、妹の様子を確認させている。自分が秦にいることも、もうすぐ救い出せそうなことも、既に伝えた。必ずや楚王の元から救い出す。


 今や紅花の心には、そのことばかりが渦を巻いているのだった。


「準備が整いましたので、そろそろ対楚工作をさせて頂きたいと存じます」


 近頃王号を唱えた恵文君は、紅花の言葉に口角を上げた。


「今度はどんな策があるのだ? 商鞅を陥れたときのような、見事な策で俺を魅せてくれるのだろうな?」


「はい。今回も、私めの舌先三寸で楚をやり込めて参ります」


 言えば王はおおいに笑った。
「俺に死ねと言ったのだ。楚王にも同じ言葉を贈ってやれ」


 紅花は、その日のうちに楚の懐王に冊(てがみ)をしたためた。


『私の封地、商於の土地を六百里と、それから秦の公女を献じます。代わりに、斉国との同盟の破棄を願います』


 欲深い楚王なら、喜んで乗ってくる確信がある。

 楚王の周囲の賢臣が、諫めることが心配だったが、好戦的な懐王は、もともと臣下の言を聞くような人間ではない。


 しばらくして、紅花の送った使者への返信に、相印と贈り物とが届けられた。

 楚王はやはり、斉との同盟を破棄したのだ。

 もちろん、約束など守る気はない。あとは時を置くだけで、策は成る。


 一向に楚へと来ない秦の公女と、六百里の土地の権利に、楚王が訝り、斉王を罵る使者を斉へと送ったという知らせを受けたのは、それから更にひと月後のことだった。


「宰相よ。怒った斉王が俺との同盟を提案してきたぞ」


 愉快で仕方がないとでもいうように、ニヤニヤ嗤いを浮かべた主に、紅花は複雑な思いを抱いていた。

 ああここまで愚かだとは。

 次々と策に嵌ってくれるのはありがたかったが、妹の身の上が心配だ。愚かな男に求められ、後宮に入った妹が、紅花にはしのびなかった。


「して、そなた、楚王の使者にはなんと返したのだ?」
「ああ……商於の地に案内し、約束した六里の土地を、何故受け取りに来ないのですか?と申しました」


 紅花がこともなげにそう言えば、王は声をあげて笑う。意地が悪い、と王が言った。どちらがですか、と紅花が返せば、その勝ちは譲ってやる、と言われてしまう。


 奇妙な友情に紅花が微笑みかけたとき、
「しかし、内の敵にも気を付けよ」
 王がふいに真顔になった。


「近頃、そなたに反感を持つ旧臣たちが騒いでおる。面妖な祝(しゅく※まじない師)だと罵る声もある」


 紅花は小さく溜め息を吐いた。もちろん、以前より、そういった動きには気が付いていた。


 謀略家でもある遊説家は、陰に徹することが鉄則。政敵の嫉妬を買うは三流、とわかってはいる。

 けれど手柄を急いだのは、ひとえに妹の為であった。


「それから」
 王は珍しく真面目な顔で紅花を見る。


「あの淳于(じゅんう)が秦に来ている。青楼でそなたを待つと」


 何故だろう。ざわりと胸を撫でるものがあり、紅花は仮面の下で顔をしかめた。


「お久しぶりでございます。ご活躍は伺っておりますよ」


 そう言って、恐らく七国一に醜い男は、やんわりと微笑んだ。紅花も仮面を取って礼を返す。

 秦の宰相に任じられてのち、ずっと、礼をしたかった。
 が、流浪の身ゆえ彼の居所がわからず、それきりになっていたのだ。


「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。淳于さまにお世話になっていなければ、私はきっと、何者にもなれてはおりませんでした。老師と、淳于さまには、いつかきちんとお礼をしたいと――」


 言いかけて淳于が手を振る。
「いいえ。今日のわたしは、貴方にとって、酷な話をしに来ましたので」


 紅花の心の臓が跳ねる。なんとなく聞きたくない。


 淳于がこれから話すことは、頭に矢が刺さった父や、悲鳴を残して消えた母と、同じ予感がする。


「貴方が楚に送った使者も、おそらく報告出来ずにいることです。貴方の妹さん、魏美人は、楚王に非常に寵愛されていました。けれど、それが他の寵姫の……嫉妬を買ったのです。妹さんは陥れられ、王の不興を買うかたちで、鼻を削がれてしまいました」


 息が出来ない。目の前が真っ赤に染まる。
 吸っても吸っても、喉を軽く締められている気がして、一向に楽にならない。


「そして妹さんは……魏美人はそれを気に病んで、毒杯を飲み自害された、と言われています」


 指の先から冷たくなるのが、紅花にはわかった。焼け落ちた村で嗅いだ煙が、濃厚に臭ってくる。
 立っていられず、崩れ落ちた。淳于が慌てて紅花に駆け寄り、短い腕で紅花を支えた。


「しかし、真実は少し違います。これはわたしの読心に過ぎませんが……妹さんは、醜くなった顔を気に病み、自害したのではありません。自分が後宮に居ることが足枷になって、貴方が楚を攻められぬことを、気にして命を絶ったのでは、と」


 ああ、と紅花はうめいた。

 溢れ出してきた感情は、己の未熟さ、至らなさを恥じるものだった。
楚に対する憎しみよりも、己の愚かさ、ふがいなさが憎らしい。


「しっかり。しっかり気を持って下さい。妹さんは貴方のことを、心から応援していました。復讐というより、貴方ならば、父母を奪い、村を焼いた戦そのものを、言葉の力で止められるのではないかと、そう信じて……夢を託していたのです」


 淳于の言葉は紅花の心をむなしく素通りした。

 紅花の策は、すべて妹のためにあった。


 寵姫となった妹を、助け出すには時があまりにも足りな過ぎた。


(碧月がもう居ないなら、ああ、私は――)


 絶望が、ついに紅花の心をぎゅっと掴んだ。冷えたその手は紅花の希望を緩慢に握り潰していく。


「宰相殿、宰相殿っ。……紅花さんっ」


 淳于が自分を呼ぶ声が、耳に痛い。視界の中に緋色に塗られた天井が一瞬映って、それからすべてが闇になった。


8へ続く

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