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遊説×乙女5

 旅を続けるうち、季節は立夏へ移り変わった。紅花が淳于と共に秦に入って、既に十日以上が過ぎている。

 秦の首都、咸陽(かんよう)は、岐山の南、渭水という川の北にあった。咸陽に辿り着いたのが二日ほど前のこと。櫟陽(れきよう)から咸陽へと都が移ってもうだいぶ経つが、秦の首都、咸陽は紅花の想像をはるかに超えるものだった。

 少なくとも、夷狄(みかいのたみ)と同等と見下される類いのものではない。


 まず、咸陽宮を囲むようにして東西南北の各城壁におのおの三門、合計十二門の城門が開かれている。

 東西軸と南北軸にはそれぞれ三本、合計九本の幹線道路が通り、宮城を巡る環状道路が城壁沿いに通っていた。南面する咸陽宮から見て、右に社稷壇、左に宗廟、前には紫微垣(しびえん)、後ろに天市垣(てんしえん※市場)があり、今、紅花たちは天市垣を歩いている。

 天市垣の賑わいは相当なものだ。


 国を治める孝公が、仁政に努めているというのは真実らしい。

 都に入る前に通った農村の多くに、見事な青田が広がっていたことから、秦の状況について紅花が淳于に尋ねると、淳于は詳しく話してくれた。


「秦の領袖(りょうしゅう)、孝公は賢い御方です。戦もしますが、戦で生まれた孤児や寡婦を積極的に救済もしています。また、生まれついての体の自由が効かぬもの、戦で四肢を失ったものにも、門番などの仕事を与えています。それから、信賞必罰、論功実績を重んじることでも有名です。身分や生国に関係なく、奇計の士を求める布告も出しました。おかげで、各地から秦に有能なものが集まり、ほれ、このように栄えております」


 淳于が小さな身丈で短い腕を上げ、自身の背後を指し示す。たしかに、正直に言って、都の様子は韓より優っているといえる。しかしそこで紅花は不思議に思った。


「淳于さま。孝公が大変力のある方だということは良くわかりました。しかしそれならば、秦には、太子である恵文君には、私のような者は、必要ないのでは」


 たしか、孝公の配下には商鞅(しょうおう)という人物がいたはずだ。商鞅が定めた法が、衰退した秦を強国に生まれ変わらせたのだと、老師に聞いたことがある。


「そう思いますか? 本当に、そう思いますか?」


 問われ、紅花は不安になった。左右で大きさの違う淳于の瞳が、まっすぐに紅花を射抜く。

 自分は何か大きな見落としをしていないか。思い出せ。民の様子を。


 山の多かった韓と違い、秦の広大な青田は見事だったが、農民達はどこか緊張した面持ちだった。目の前の作業よりも、どこか他人を気にしているような……。

 それから、秦に入ってからは、どの宿でも厳しく旅券の提示を求められた。

 これは韓ではなかったことだ。天市垣の往来を行く人々も、よく見れば、店先で世間話をする様子もない。
 そこで紅花は気付く。ものごとはすべて陰陽でしか、成り立たぬことに。


「この国では法がすべてです。法がゆえ国は栄え、豊かにはなりました。けれど民に互いを監視させ、密告を奨励しています。密告をした者には報奨が与えられ、反対に、黙っていた者は厳しく罰せられます。密告された者を含む九つの家は処罰され、場合によっては皆殺しとなることもあると聞きます。それから、法に従い生きることを強要するために、民は学ぶことを禁じられてしまいました。余計な知恵をつけられては、施政者にとっては都合が悪いですから。そうして、歌や物語の類いは民の生活から奪われ、民は国に飼われる豚と成り果ててしまいました」


 紅花の気付きを読心した淳于が答える。
「それ、は」


「もちろん、有効な策ではあります。国を富ませ、国防を強化し、民の数を増やすには必要な法ばかりです。問題はその程度にあります。商鞅は徹底して、厳罰主義を貫いています」


「けれど、歌や学びの機会でさえも奪うだなんて。乱は起こらなかったのですか」


「もちろん、起こりました。けれど、結局民は従うことになった。何故なら、法を犯したとして、一番はじめに裁かれたのはこの国の太子でしたから。二歳になったばかりの恵文君が、詩歌を歌った、というだけのことで」


 紅花は絶句する。
 たった二歳の幼子が、詩歌を歌った。

 恵文君は、何かで覚えたそれを、きっと、皆に褒めて欲しくて、父母に喜んで欲しくて、たどたどしくも披露したに違いない。本来ならば微笑ましくもあり、太子の利発さを褒めてしかるべき出来事だ。

 けれど、太子は罰せられた。
 商鞅という宰相の恐ろしさに、民が震えあがったのは想像に難くない。それから、太子の身でありながら真っ先に罰せられた幼子はどうなったのだろう。一般的に罪人へ課せられる処罰は過酷を極める。鼻削ぎ肉削ぎ、生涯消えぬ黥(いれずみ)を体に入れられることもある。


「どうですか? 恵文君という方に興味が出てきましたか?」


 淳于にまたしても心を読まれて、紅花は苦笑した。恵文君が温室育ちのただの太子ではないことは分かった。それから恐らく、彼は紅花と同じ、復讐という名の冷たい刃を心に抱く人間だということも。


「いいですか。わたしは貴方を太子にご紹介は致しますが、恵文君の相談役に求められるかどうかはすべて、貴方次第です。機会は与えますが、勝ち取るのは貴方ですよ」


 太子と落ち合う約束をしたという青楼(せいろう)に着いてすぐのこと。淳于は紅花に、そう念を押した。わかっている。これは夢を、復讐を遂げるための第一歩。恵文君を動かす自信が紅花にはあった。


(老師が言っていた。相手を動かす『謀(はかりごと)』が可能かどうかは、相手と本心の部分で通じ合っているかどうかで判断出来ると)


 太子が自分だけの奇計の士を求めるのは、本心に復讐と、覇道への希求があるからだろう。

 そしてそれは、そのまま紅花の本心でもある。

 ならば説得のしようもあるというもの。紅花は更に考える。
 恵文君の、それからこの秦という国に巣食う病患は、商鞅という男にある。もっと言えば、商鞅の定めた法の厳罰さ、それから矛盾に、だ。


 例えばこの、青楼(せいろう)という場所。

 紅花は自分がいる楼閣の中をぐるりと見回す。
 表向きは青漆一色で塗られたありふれた酒楼だったが、中は朱で統一され、外装よりも内装の方が豪奢といえた。

 至る所で天女とみまがう美しい女達が楽を奏で、舞を披露し、また、訪れた客と話しながら、酒を振る舞っている。不思議なことに、談笑する客も女も、下卑た感じはひとつもしない。酒を呑んでも悪酔いはせず、落ち着いていて、どこか気品のようなものがあった。そも、秦の青楼は、他国のように、男女が春を売り買いする妓院ではない。


 中へ入るには金以上に教養がいる。

 商鞅が法で禁じた詩歌を伎女に贈って気に入られることが、ここに出入りするための条件になっていると、紅花は淳于から聞いた。


 つまり、国を富ませ、民を勤勉に働かせるため、民からは詩や歌や舞、文字を奪っておきながら、一部の人間の楽しみとしては、それらを残したということだ。


 そうなると、幼かった太子が、法を犯したとして厳罰に処されたのは、民の不満に対する見せしめとしての意味しかない。
 面会をこの青楼に指定してきたのは太子、恵文君だという。商鞅に対する憎しみの一端を、紅花は見た気がした。


(だからこそ太子には、付け入る隙がある)


 相手の激しい感情は、そっくりそのまま、相手の心を動かすための鍵たりえる。


「お客様。待ち合わせの方がお部屋にお着きになられました」


 黄昏時になって、目の覚めるような美しい伎女(ぎじょ)が紅花を呼びにきた。紅花は仮面の下で息を整える。恵文君の敵、商鞅について、紅花は淳于の力を借りつつ調べあげた。恵文君は商鞅についてどうすべきか、必ず紅花に尋ねるはず。その際の答えは既にある。


 淳于の金で身なりを整えた紅花は、恵文君の待つ離れへと、伎女の案内に続いた。


「そなたが淳于の薦める奇計の士か」


 跪き、叩頭(こうとう)をした紅花の上に降ってきたのは、なんとも優美な声だった。商鞅は、この声から詩歌を奪ったというのか。


「顔を上げよ。話をしよう」


 許しが出たので、紅花は仮面を付けた顔を上げ、そこで初めて太子を見た。
 燭台の灯りにおぼろげに照らし出された若き太子の顔は、伎女に劣らぬ美貌を備えていた。けれど冷たい。顔貌(かおかたち)は整っているのに、どこか冷えた印象を残す。
 その印象が、他人を拒絶するような光を宿す目からきているものだと、紅花は気付いた。


「仮面は取らぬか。無礼な、と言いたいところだが、何か言い分は?」


 肩口までの髪を揺らして、嘲るように首を傾けながら、太子が紅花に尋ねる。


「申し訳ありません。私の顔は非常に醜く、とても殿下にお見せ出来るものでは。どうぞお許しを」


 そう言えば、太子は狂ったように嗤いだした。
 紅花は不安になる。やはり仮面は外した方が良かっただろうか。しかし、女と侮られるのでは、という危惧があった。殿下、と声をかけようとしたそのとき、


「そなた、淳于の知り合いと聞いたが、そなたの顔は淳于より醜いというのか? 淳于ですらその顔を、恥もなく晒しているというのに! それからそなた、顔は隠すが声はまるで隠さぬのだな」


 紅花は呼びかけようとしたのを途中でやめ、口を閉ざした。悪声を指摘したのは紅花の反応を見るためであろう。淳于が太子を称して、多少ねじくれたところもある、と言っていたのを思い出す。


(恵文君はなかなかに、クセのある方に見える)


 ここは恵文君の価値観が明らかになるまで静観し、つぶさに彼を観察すべきだ。


「仰せの通りでございます。私は声も、このように、醜い音しか紡げません。しかし、声すら隠してしまえば、言葉は紡げず、遊説家とは申せません」


 恵文君は紅花の答えに鼻で嗤った。
「そなた、ひとつ、俺と勝負をせぬか?」


 突然の提案に、紅花は仮面の下で小さく息を呑む。


「聞いておるのだろ? 俺が昔、法を犯して罰を受けたこと。俺の顔が無事だったので驚いたのではないか? ならば気にもなっているだろう。俺の体のどこが削がれてしまったのか。または、どこに罪人の証が刻み込まれているのかを」


 太子が仮面の奥の紅花の瞳を挑むように見た。その顔には、高貴な美貌に似つかわしくない下卑た笑みが張り付いている。


「そなたが勝てばこの身の恥、晒してやろう。俺が勝ったら仮面を外せ」
「いいえ殿下。私めが勝ちましたなら、その際は。殿下の奇計の士として、仕えさせて下さいませ」


紅花の言葉に、恵文君はそれもよかろ、と呟いた。


「して勝負とは」

「謎解きだ」


 恵文君はそう言って、紅花の反応を伺うように、意地の悪い視線を投げてよこす。


「そなた、生国は?」

「魏でございます」


「そうか。ならば、千里を照らせる宝があるか、あるとすれば何か、答えてみよ」


 なるほど、謎解きだと紅花は心の中で苦笑した。千里を照らせる宝など、普通の珠の類いではない。ものの喩えであり、その答えは恵文君の本心とも繋がるものだろう。


 少し考え、紅花は口を開いた。


「千里を照らす宝はあります。殿下の父君であらせられる孝公が、布告を出して広く求められました。つまり、それは人材です。一尺の珠は車十二台を照らせますが、有能な人材は国を富ませ、千里を照らす宝となります」


 紅花の言葉に、恵文君の口角が下がった。


「その証拠に、孝公が他国から迎えられた商鞅さまが作られた法は、この国を豊かにしました。しかし、その法がゆえに民は国に飼われる豚となり、かえって優れた人材が生まれにくくなっております。商鞅さまがお作りなられたのは覇道の法。覇道がゆえに国は富みましたが、民は疲弊し、恨みを募らせております。商鞅さまが外出される際は、武装した兵を侍(はべ)らせていると聞きました。これは異常なことでございます。自らが宰相として治める国を、武装なしでは出歩けぬとは」


 太子はもう嗤ってはいなかった。代わりに、まるでつまらないとでも言いたげに、冷たい瞳で紅花を見ている。紅花はこの勝負に勝ったことを知った。


「父君は覇道をお選びになりました。殿下は仁徳によって統治する、王道を征かれませ」


「そなた、名は?」

「……張紅花と申します」


 すると、太子は一瞬、呆けた顔になる。一拍置いて、声をあげて笑った。


「なるほど、仮面は女と侮られぬためか。まあよい。謎解きはそなたの勝ちだ。遊説家として雇い入れよう。それから」


 恵文君は立ち上がると、衣擦れの音をたてながら瑠璃紺色の深衣を脱ぎ始める。これにはさすがに紅花も慌てて制止の声をあげた。


「殿下っ……」

「約束だ」


 半裸になった恵文君の白い肌には、引き攣れたような醜い黥(いれずみ)が、はっきりと刻まれていた。刻み込まれた黥は『贅(ぜい) 僮奴(どうど)』と読める。

 役に立たぬ奴隷、という意味だ。


 声も出せない紅花に太子は、先程下げたばかりの整った口角を上げる。


「どうだ、そなたの顔より醜いだろう」

「なんと不敬な――」


「俺の母は身分が低い。取り立てて後ろ盾のない俺が、反抗する民への見せしめとして最適だったということだ」


 紅花は恐る恐る恵文君の瞳を見た。その目には、激しい憎しみは窺えない。
 窺えないが、これといって他の感情も見受けられない。
 つまり、本心が見えない。


「俺が犯した罪がため、俺の守り役は鼻を削がれ、俺の師は額に黥(いれずみ)を彫られたのだ。俺は服を着てしまえば太子として振る舞えるからな」


「けれど、これはいくらなんでも」


 いたたまれずに食い下がった紅花に対し、恵文君の瞳に剣呑な光が宿った。


「だから奇計の士を求めた」


 紅花の背に冷たいものが走る。一見して皮肉屋で、冷笑的な太子の中には、青い炎が燃えている。


「何も恨みばかりではない。俺は父とは違う。千里を照らす宝を手に入れるのではなく、千里を照らす玉を産み出す山が欲しいのだ。商鞅はいずれ殺す。異論はあるか?」


 紅花は跪き、叩頭することで是を示した。


「王道を征けというなら、その道を示せ。俺に策を授けよ。千里を照らす宝となれ。国を武装して歩くのは面倒だからな」


 顔を上げ、恵文君を見れば、刻まれた黥(いれずみ)とは逆に、傲岸極まりない表情をして紅花を見ている。


その切れ長の瞳の奥には、押し付けられた言葉通りには生きぬという鋼の意地が見え隠れする。


 紅花はそこで初めて彼の本心を見た気がした。
 恵文君の命に紅花は静かに頭を垂れる。

 仮面の下で、紅花は、湧き上がる喜びを噛み締めていた。


6へ続く

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