見出し画像

遊説×乙女10(最終話)

 楚を出て、半年。
 久方振りに帰ってきた秦国は、既に夏至を迎えていた。


「なんですか、その顔は」


 帰還し、紫微垣に登庁した紅花の姿を見た主人は、なんとも不満げな顔を見せる。


「つまらぬ」


 一言、そう言って恵文王は美貌をしかめた。
 あらかじめ帰還の旨を記した冊(てがみ)を送っていたというのに、咸陽宮、龍椅の間に集まった臣たちのざわめきは止まらない。

 まさか本当に無事に戻って来られるとは、誰しも思っていなかったのだろう。


「王に約束しましたからね。それから、ただ帰るのでは能がありませんので、ついでに六国全部と個別に同盟を取りつけて参りました」


 紅花の言葉に紫微垣(しびえん)のざわめきは一層大きくなった。


「ほう……」
 そこで初めて王の口角が上がる。紅花も仮面の下で笑みを返した。


「どうやったのかは後で聞こう。そしてそれがまことなら、そなたの封地を更に増やし、六邑と武信君の号を与えようではないか」


 それは信頼の証ととっていいのか。
 仮面の奥から恵文王の瞳を見る。王は相変わらず傲岸な表情で、不敵な笑みを浮かべている。けれどその目には、信義の光が宿っていた。
 号の話が出たところで、臣下の一人が声をあげる。


「王よ! い、異議がございます! 以前から面妖な面を被っておりましたのでわかりませんでしたが、宰相は、お、女では……。しかも声から察するに、まだほんの小娘のように思えます。そのような者を相邦の地位に据え、且つ、号を与えようなどと……! 孝公が生きていらしたらなんと言うか……!」


 声をあげたのは、孝公の時代より仕える初老の臣だった。悔しくて堪らないとでも言うように唾を飛ばす旧臣に、


「父がなんと言うかだと?」
 王は声をあげて笑った。


「俺の父が何を進めてきたか、もう忘れたか? また、法を忘れたか? 俺の父が前の宰相に従って、推し進めたのは『信賞必罰』。よく働く者は賞し、働かざる者は罰する、ということだが? そこに男女や長幼の差は含まれぬ。そなた程の年寄りならば、周の王姜(おうきょう)は知っておろう?」


 問われた旧臣は、反論出来ずに口を閉ざす。
 王姜とは、遥か昔、黎明期の周国の軍を指揮した老女の名だ。


「今回の宰相の働きは、楚と斉を仲違いさせ、生きて戻っただけでも、賞に値すると思わぬか? そなたなら生きて戻れたか?」


 答えぬ臣に、王は立ち上がり、ひとつ息を吸い込んだ。


「俺は孝公とは違う。父が定めた苛烈な罰をゆるめ、功を論じることも良くしているつもりだ。父は奇計の士を外に求めたが、俺は内に奇計の士を生み出したい。ゆえに、貴賎も性別も問わぬ。戦だろうが、外交だろうが、国の益になる働きをした者には、それ相応の報奨を約束しよう。それとも、商鞅のように、その富貴を問わず功をあげぬ者は厳しく罰した方がよいか?」


 今や場は静まりかえり、王の弁を皆が粛々と聞いていた。
 商鞅の法に反した者が辿った末路は、未だ臣下の記憶に生々しく、忘れるには新しいということだろう。


「い、異論……ありませぬ」


 初めに意見した旧臣が叩頭し、続いて広間に集まった全員が、同じように平伏した。
 紅花も遅れて叩頭する。その紅花の頭の上に、ほんのりとした温もりが載った。
 王の手だった。


「一度しか言わぬ。よくぞ戻った。我が遊説の士、我が友よ」


 紅花はますます頭を垂れる。


「復讐は叶ったか?」
聞かれ、紅花は動揺した。淳于からでも聞いたのだろうか。


 復讐は叶った。しかし、家族を亡くしたことへのまことの復讐を遂げるのならば、それは七国の統一と平和でしかない。


「いいえ、私の目的は、夢は、この舌で、舌が紡ぎ出す言葉の力にて、争いを止め、戦をなくすことですので」

「ならば顔をあげよ。俺にその道を示せ。そなたがいつか、その夢に辿り着くまで」


 王命である、と付け加えられる。
 紅花が顔をあげると、王が剛毅に微笑んでいた。
                                          


 遊説×乙女 了

いいなと思ったら応援しよう!