遊説×乙女4
雲夢山をおりた紅花は、楚の国境を越え、韓の国へと入っていた。
紅花がもともと居たところは、韓を挟んで秦のはるか東に位置している。
そのため、秦への最短経路を考えたとき、どうしても韓を横断せざるを得ない。
路銀の少ない女一人の旅、ましてや険しい山を何度も越える必要のある旅になった。夜露にさらされることの方が多かったが、ときおり、里におりて休むこともある。
酒場や宿場で奇妙な面を被った紅花に、声をかける者はいなかった。人々の会話に聞き耳をたててみれば、先ごろ韓では疫病が流行っていたらしい。
得体の知れない余所者に、あえて近づく馬鹿などいないということだ。もちろんゴロツキ程度の輩なら、あしらえるくらいの剣は老師に習っている。けれど面倒事はごめんだ。往来を歩くだけで道行く人に避けられても、かえって紅花には都合が良い。だから、立ち寄った宿場の入り口で、
「久しぶりではありませんか」
喧騒の中から声をかけられ、紅花は心底驚いた。
振り返り、声の主を確認して更にぎょっとする。同時に、仮面を付けていたことに思い至って安堵した。
紅花に声をかけた相手が、非常に醜かったからだ。
知り合いならすぐに分かる。声をかけてきた男は、そういう容貌をしている。紅花は無礼と思いつつも、仮面越しに彼をまじまじと観察した。
まず特徴的なのは、丸刈りにしたその頭。丸刈りは奴隷の証なので、男は奴隷なのだろう。天井を向いた鼻の頭は滑稽ですらあり、左右で大きさの違う目が、見る者を不安にさせる。それから、火傷の跡が残る肌がなんとも痛々しかった。
一度見たら到底忘れられそうにない人物だ。
しかし今では仮面のせいで、紅花も似たり寄ったりの容貌をしている。五尺に満たない小さな体を上反りにして、自分を見上げる彼に、紅花は少しの親近感を覚えていた。
「人違いでは……」
「いいえ、たしかにその仮面は王詡(おうく)のもの。とはいえ、貴方、縮みましたか? わたしに少し近くなった」
奴隷の男はそう言って笑う。笑った顔は更に醜く、他人をゾッとさせる類いのものだった。けれど、王詡、と聞いて、紅花の中では、より男に対する警戒心が薄らぐ。
老師の知り合いなのだろうか。隠棲する前の師匠のことを、紅花は何一つ知らなかった。斉の生まれだという話を聞いたことがあるだけだ。
素性を明かすかどうか、一瞬逡巡する。目の前の奴隷を果たして信じていいものか。
男はなんとも無垢な瞳で紅花を見ている。その目に見覚えがあった。老師と同じ、他人の心にすっと入ってくる瞳だ。紅花は一つ息を吐いた。男は相変わらずにこにこと柔和に醜い顔を歪ませて笑んでいる。
「いえ、私はあの人の弟子です。この仮面は師匠に頂いたものでして」
そう告げると、男は、
「ああそうでしたか。どおりでわたしと目線が近い。王詡は元気にしていますか? 不老の身ゆえ、寂しい思いをしていないと良いのですが」
そう言って遠くを見るような目になった。男の言葉に、紅花は老師に思いを馳せる。あの人が、寂しいかどうかはわからない。何せ彼は、いつも紅花に家事を任せて、酒ばかり呑んでいたのだから。
「王詡はあれで、寂しがりな男でしたからねえ。いつもわたしや他の者を誘っては、酒ばかり呑んでいました」
懐かしそうに語る男に、紅花もつられて仮面下で微笑む。
「ああ、自己紹介が遅れました。わたしは淳于(じゅんう)と申します。王詡と同じ斉の出で、彼とは奴隷だった頃からの友人です」
では、今は奴隷ではないということなのだろうか。丸刈り頭を不思議に思った紅花に、男、淳于は、ふふふと笑って眇目(すがめ)になった。
「ええ。今は奴隷ではありません。しかし奴隷はわたしの原点。原点を忘れぬために、敢えてこの頭にしています。わたしはとても幸運な男でしてね。いろいろあって、今は諸国を歩いて有能な人材を集め、その方に見合った相応しき王に紹介しているのです」
一瞬、紅花は動揺しそうになる。紅花の疑問を見透かしたかのように、淳于が先回りしてそう答えていた。容貌だけを見ればとても幸運には見えなかったが、よく見れば彼が身に付けているものは、すべて上等なものだった。生まれついての身分を覆すのは並大抵のことではない。
彼がどういった経緯で奴隷を脱したのかはわからない。わからないが、戦功によるものではないことは明らかだ。この、いかにも非力そうな体では、戦場で武器を持つことすらままならぬだろう。
で、あれば頭か。容貌の醜いもの、力のないものは知恵を武器にするしかない。自身を振り返っても紅花はそう思う。
それに、諸国を歩いて探してきた人材を王に紹介するとは――。王や公との繋がりがあるということだ。容貌といい、奴隷を脱したことといい、淳于はやはり普通ではない。
「ああ、警戒も恐縮もしないで下さい。わたしは王詡とは違う。彼のような体系だった謀略や兵法の教えはありませんし、弟子もいません。少し、人の心が読めるだけです」
そう言われて、けれど紅花は、淳于が余計に恐ろしくなった。老師の教えの真髄は、他人の心を読むことにあるのだから。
「かえって、怖がらせてしまったでしょうか」
次々と本心を言い当てられて、紅花の手には、じっとりとした手汗がにじむ。
(いけない。これじゃ完全に、この人が天枢(てんすう)になっている)
天枢というのは北極星だ。
遊説家はみな、自身を北極星に喩える。謀略家たる者、ただそこにありて、自身は微動だにせぬまま、周囲の星だけを動かそうと努めるものだ。巧みな者は持枢者(じすうしゃ)と呼ばれ、王ですらそれと気付かずに動かせる。淳于がただならぬ人物であることはわかった。その上で紅花は口を開く。こういうときは本題を聞いてしまうに限る。
「あの、いい加減ご用件を仰って下さい」
紅花の言葉に淳于は声をあげて笑った。
「いや、失礼致しました。やはり王詡の弟子だと感心した次第です。そうですね……わたしは今、とある高貴な方に遊説家の紹介を依頼されているのです。わたしが知る遊説家で、もっとも有能な者は王詡。貴方の師です。しかしここでお会いしたのも何かのご縁。どうでしょう。わたしに紹介されてはみませんか?」
急な申し出に、紅花は面食らってしまう。とある高貴な方、に引っ掛かりを覚えた。
淳于が言うなら、それは、きっとどこぞの王だ。今の紅花には願ってもない申し出だった。
(しかし信じていいのか?)
師の友人だというのは嘘ではなさそうだ。王との繋がりもおそらく真実。
しかし紅花には実績がない。つまり、紅花が失態を犯せば、それはそのまま淳于の信頼の失墜に繋がってしまう。彼は、そんな危ない橋を渡るような人間だろうか。
王とは残酷で気紛れな生き物だ。
古い友人の弟子だというだけで、紹介することに利はあるのだろうか。
「ご心配をありがとうございます。わたしはこんななりですが、馬鹿ではないつもりです。貴方を紹介するのは王ではありません。また、公でもない。いずれ飛び立つ鳥の雛です」
(いずれ飛び立つ鳥の、雛……)
それは太子に他ならなかった。ふと、秦の太子のことが、紅花の頭に思い浮かぶ。
秦の太子、恵文君は、たしか紅花の一つか、二つ歳上の少年だったはず――。
「どうです? 老いた大鷹なら、貴方もわたしも、命を賭する羽目になる。幸い、若鳥の羽はまだ何色にも染まっていない。力強く羽ばたく日を待って、共に飛ぶ友を望んでいるのです。多少ねじくれたところもありますが……。わたしや王詡のような熱の枯れた年寄りと飛ぶより、貴方と飛ぶ方が良いでしょう」
魅力的な話だった。けれど、信ずるにはまだ足りない。
淳于の話には彼自身の利や心がない。
慈善そのものに聞こえて、淳于自身の目的を、信念を、紅花は知りたくなった。金ではないことは明白だ。期待を込めて、彼の言葉を待つ。読心に長けた彼は、やはり口を開いた。
「わたしはもう、戦にはほとほと飽きました。争いごとがあれば土地は荒れ、民は疲弊し、奴隷が生まれる。かつて、わたしは奴隷の身分で、一人の王に諫言(かんげん)をしました。王はわたしの首をはねませんでした。代わりに、先生と呼び、民に善政をしきました。わたしは彼を覇者にしたかった。故に各地を旅し、才に富んだ優秀な者を集めてまわったのです。しかしわたしのたった一人の主人は死んだ。ゆえに彼に代わる、七雄(ななこく)の王になりえる者を、それから、その者を覇者に押し上げ、補佐する者たちを見出だすことにしたのです。そしてわたしは、王詡と同じ仙となり、人の世の理から外れた者となりました」
醜い淳于のつぶらな瞳に、紅花と同じ炎があった。紅花は知っている。それは、覚悟のある者にのみ、宿る炎だ。
「わかりました。申し遅れてすみません。私の名は張紅花と申します。若輩なれど、私に賭けて下さるのなら、いつの日か、この地を統べる偉大な王を、国を育ててみせましょう」
紅花が言えば、淳于は笑って、両手を合わせ拱手(こうしゅ)した。
5へ続く