3.

 僕らの言葉は、一つ残らず全てが借り物で、それゆえに生身の僕が世界に入り込むことはなくて、世界が生身の僕に入り込むこともない。常に僕は何か透明な膜みたいな、それでいてそれはどんなものより固いのだけれど、とにかくそういうものにおおわれていて、僕は一生かかってもそれを引き剥がすことはできない

ある日の帰り道、夕日の鮮やかな光に、僕は美しさを感じて、希望を抱く。

きっと、僕の目に映った夕日の光は、本当は「鮮やか」ではなかっただろうし、僕がそれに対して、最初に、本当に最初に感じたことは、「美しい」ということではないし、僕がそれで抱いたものは「希望」でもない。でも僕は僕の目に映ったものや感じたことをもっと上手く、直接に表現する術を知らない。そしてまた安易に美しいなぁとか思ってしまって、あぁぁぁまた言ってしまったやだやだやだと思いながら小さく舌打ちをする。とりあえず簡単に形を与えて安心しようとする僕が、僕自身を覆う膜を日増しに固く、分厚くしていく。

 世界をそのまま映し取ることは僕たちには不可能で、僕たちの、世界を映しとらんとする試みは、あらゆる時と場所において失敗し続けている。僕たちは無意識に諦めていて、その試みが失敗していることを知っていながら、それでもその試み以外には試みるやり方を知らない。言葉を借りることなしには、世界を切り取ろうとすることさえできない。僕たちは毎日諦め続けて、失敗し続ける。僕らの言葉にはいつでも諦めがついて回る。そのうち僕らは諦めていることにも気づけなくなって、世界の見え方も感じ方も借り物になっていく。

 こうやっていくらダラダラ書いたところで、僕の憂鬱さであって、当然憂鬱さではないものを、そのまま映し取ることは決してできない。そしてお前は、僕の憂鬱さをそのまま感じ取ることはできないし、借り物の言葉で僕の言葉に借り物の評価を与えて、そして僕のところからいなくなっていく。僕はまたひとりぼっちになってしまったと思うけれど、最初から僕がお前を受け入れることがないように、最初からお前は僕を受け入れることなどなくて、そういう意味で僕はずっと1人で、お前もずっと1人で、互いに爪をかみながら見つめ合うことしかできない。

 諦めて、でも、それでも、と思う時、僕たちは詩人になって、歌人になって、ポエマーになるんだろうと思う。詩人とかポエマーは独りよがりな人間に見られがちだけど、自分の見た世界を少しでもそのままに映し取って、僕らにすこしでもそのままに伝えようとする営みは、まさしく独りよがりとは対極にあるものなんだろう。

 僕もそういう人間でありたいと思うけれど、実際は諦めに歯向かうこともできない。だから僕はあなたに感じたすべてを、好きという言葉に込めることしかできない。そのとき、僕があなたに感じていた一切のことは全て霧散してしまって、後には好きという言葉しか残らない。僕は、またしくじってしまったことに苛立ちを感じて、でも何もできるわけはなくて、そんなことは知らないあなたの笑顔を見て、また性懲りも無く、好きと言いたくなってしまう。僕の言葉を素直に受け取ってはくれないあなたが、実は一番僕の言葉をそのままに受け止めようとしてくれてるのかもなとか、そういうことを考えて、また性懲りも無く、好きと伝えてしまう。

終わり。

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