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花の熟れゆくを慈しむ心

枯れる、という言葉がいい意味で使われることは少ない。蕾から花開くまでの過程は成長として歓迎されるけれど、枯れたり散ったりしていく様は「美しさ」として語られることはない。

ちょうど今年から盆栽を育て始めて、日に日に少しずつ枝葉が伸びてゆく姿を見ていると、切り花はいけた瞬間がピークであとは枯れゆく様を眺めるしかないことにより切なさを感じるようになった。

けれど、盆栽の手入れを学び始めたことをきっかけに切り花も意識して手入れをするようになってから、また少し見方が変わった。

たしかに花は枯れゆく運命ではあるけれど、手入れを通して愛着が湧いてくると、「美しく終わらせる」ことを考えるようになる。それは単に長持ちさせるためだけではなくて、散り際まで美しく楽しむために手入れをしてあげたい、と思うのだ。

そしてこの「最後まで慈しみたい」と思うことこそが、手入れの意味であり効果なのではないかと考えるようになった。

花は生けた瞬間くらいしか写真に撮らないし、SNSに載せもしない。家に人を招かない限り、一度生けた花のその後を知るのはほぼ自分一人である。

人の目だけを意識するならば買ってきた日の写真が撮れたらそこでお花の役割は終了になってしまうだろう。でもせっかく生けたからには少しでも長く楽しみたいから、毎日水を変えて水切りをして、時には栄養剤も入れたりして、日々細々と手入れをする。

そうやって手をかけていくと、人は不思議なもので段々と愛着が湧いてくる。たとえ他人から見たらもう美しさの盛りは過ぎた花でも、自分が手入れしている花の「枯れてゆき方」は唯一無二であり、その変化は芽吹きや蕾の成長を見る楽しみとなんら変わるところはない。

最後まで生き切る、その姿を日々慈しむことが、切り花を生けて愛でる楽しみのひとつではないかと思う。

そしてこの感覚はただ買ってきて生けるだけで得られるものではなく、日々心を寄せて手入れをしてきたことへのご褒美でもあるのかもしれない。

切り花に限らず、手入れは長持ちさせるため、美しさを保つためのものとして語られる。けれど同時に、手をかけることを通してその対象が「唯一無二のもの」になっていく過程にも、その意味と価値があるのではないかと私は思う。

第三者から見て美しさを保つことも大切だけれども、傷や汚れがあっても自分にとって価値がある、その欠点の一つ一つにも思い出があると思えること、そう思えるものを増やしていくことが、この世界とゆたかに付き合うコツなのではないかと。

今はいくらでも外注も自動化もできる時代だけれども、あえて自分の手で手間ひまをかけることで暮らしに愛着が湧く面もたしかにある。すべてに手間ひまをかけるのは難しいけれど、何かひとつ自分の手で慈しむものを持つだけでも、日常の中にゆたかな時間が増えるのではないかと思う。

愛情というのは面倒なことの中からしか生まれないし、もらうのではなく与えることからしかえられない豊かさもある。

私は日々、花のために手入れを施しているように見えて、実は手入れを通して湧いた愛着と花が最後まで生き切ろうとする姿を受け取らせてもらっているのかもしれない、と思うのだ。

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