幸福の虚像が、私たちを追い詰めていく──韓国ドラマ「アンナ」を見て

普段、韓国ドラマを見ることはあまりない。日本中が熱狂していた「愛の不時着」や「梨泰院クラス」ですらも未履修だ。そもそも恋愛ドラマにあまり惹かれないタイプなので、話題の韓国ドラマの大半はスルーしてきてしまった。

そんな私が韓国ドラマ「アンナ」に興味を持ったのは、信頼しているドラマウォッチャーアカウントの人たちがこぞって、しかも熱狂的におすすめしていたからだ。そして予想どおり、まんまと私も沼にハマった。

「アンナ」は、ドラマでありつつも、つくりとしては映画に近い作品だなと思う。一話のなかの起承転結やストーリーの起伏はそこまで大きくない。けれど、あちこちに後につながる伏線やモチーフが散りばめられており、考察心をくすぐられる。なるべく間をあけずに8話すべてを見た方が楽しめるドラマだと思う。ちなみに私は5日で見てしまった。1日あたり1.5話ペース。笑

主人公のアンナ(ユミ)は、ささいなきっかけから嘘をつきつづけ、気づけば後戻りできないところまで駆け上がっていってしまう。これだけ聞くとただの自業自得に思えるかもしれないが、彼女はただの見栄で嘘を重ねていったわけではない。引き返せるポイントはいくらでもあったのに、「期待を裏切れない」「もう嘘を貫き通すしかない」「この生活から抜け出すには嘘をついてでも手に入れるしかない」など、彼女を追い詰めた何かしらの存在が常にある。

物語の中盤で、彼女は「他人の経歴を盗み、その人になりかわる」という大胆な行動にでる。けれど、アンナ(ユミ)にその決断をさせたのは、永遠に虐げられつづけるしかない絶望と、能力ではなく運によって生き方が規定されてしまうことへの怒りがあった。

彼女がやったことは、たしかに「悪」だ。しかし、そんな行動にでるのも仕方がないと同情してしまうほど、彼女をとりまく状況はどうしようもなく、出口が見えない。この八方塞がりな状況をどうにか打破したい。そうやってもがいた結果、彼女は砂上の楼閣をつくりあげてしまうことになる。

個人的に印象的だったのは、自分が使用人のように扱われていたときに投げかけられた言葉を、自分が人を使う側の立場になったときに発してしまったことに気づき、動揺するシーンだ。

使われていた頃は「毎日こんな理不尽に耐えているのに、そのうえなぜそんなひどい言葉を受けなければならないのか」と怒りに震え、その言葉が彼女の人生を虚飾の世界へと向かわせた。しかし、今度は自分が人を使う側になり、考えなければならない問題に追われて余裕がなくなると、使用人が「私用のために休みをとりたい」と言い出すことすらも、「なんでそんな勝手なことばかり言うのか!」と激昂の種になる。

ハッと我にかえったアンナは、すぐに謝罪し、休暇を許可するが、あんなに自分をひどく傷つけた人とまったく同じことをしてしまった、という後悔にさいなまれる。憧れの地位を得ることは、その魅力的な部分だけでなく、負の部分、嫌な部分もまた得てしまうことになる。いいところだけ掠め取ろうなんて、うまい話はないのである。

誰もが羨む富と地位を得て、羨望の的となったアンナ。憧れだった教授の職に就き、講義をするシーンは幸福と自信に溢れ、溌剌としている。しかしその幸せは長くは続かず、自分がついた嘘がゆっくりと彼女の首を絞めていく。

アンナの秘書が「私はイ・アンナ先生に最後まで忠義を尽くします」と振り絞るように伝えると、アンナは誰にいうでもなく、独り言のように「忠義……私は、誰にも尽くしたことがないわ。」とつぶやく。

ただ自分の理想を追いかけて、それを実現するためだけにひた走ってきた人生。小さな嘘が膨らみつづけ、そのためにたくさんの人に不義理を働いてきた。その結果として得たものは、虚像の「アンナ」に群がり、利用しようとする人だけ。本当の自分、つまり「アンナ」ではなく「ユミ」を愛し、大切にしてくれた数少ない人たちも、自分から手を離してしまった。

その後悔が、切々と伝わってくるシーンだった。

アンナ(ユミ)の虚飾まみれの人生は、たしかにフィクションだ。いくら才能があって運を味方につけたとしても、こんな嘘が現実世界でまかり通るはずがない。

しかし、程度の差こそあれ、私たちのなかにもたしかに「アンナ的な部分」があるはずだ。見栄をはるための、ささやかな嘘。心配をさせないため、がっかりさせないための小さなごまかし。

アンナほどではないにしても、「こうありたい」という理想を掴むために、私たちは嘘を重ねる。

なぜそんな嘘をついたのかと問い詰められたアンナは「自分でもよくわからない」と答える。きっとこの言葉に、嘘はない。嘘のために嘘を重ね、嘘を本当にするために努力してきたアンナにとって、もはやどこで道を間違えたのか、どこでなら引き返せたのか、その線引きは曖昧になってしまっていたのだろう。視聴者である私たちから見ても、その境界線は曖昧だ。

「あの人みたいな暮らしができたら」「あんな風に環境に恵まれていたら」と、私たちは他人のことを羨む。しかし、その憧れを完璧に掴み取ったアンナの姿は、決して幸福そうには見えない。むしろ上り詰めれば上り詰めるほど、彼女は追い詰められ、身動きがとれなくなっていく。

アンナが、自分が昔受けた仕打ちと同じことを使用人にしてしまったように、憧れられるような立場にも、それはそれで別の悩みがある。「あの人のように生きられたら幸福なはずだ」と感じる人と入れ替わったところで、別の悩みが生まれるだけで、手放しで幸福になれるわけではない。

過去の自分を脱ぎ捨て、人を切り捨てることで、欲しいものを着実に帝にれていったアンナ。彼女の姿は、昔からの友人や地元の仲間を切り捨てながら都会で目標に邁進する人々の姿に重なる。あらゆるものを犠牲にして築いた砂上の楼閣に、たったひとりで閉じ込められることが、本当に手に入れたい「幸福」だったのだろうか──。

「アンナ」を見ると、いろんな角度から社会や人間の幸福について考えさせられる。そしてなにより、細かいところにまで伏線やモチーフが散りばめられており、「あのシーンがここにつながっていたのか!」と発見する楽しみがある。

たとえば、本作では靴(ハイヒール)がひとつの重要なモチーフとなっている。彼女の社会的地位があがるにつれて、そして嘘が重ねられていくにつれて、ヒールはどんどん高くなる。また、人のヒールをそっと履いてみるシーンは、「人生を盗む」ことの暗喩であると思われる。

これ以外にもBGMに使われる曲や洋服の色味など、あちこちに考察しがいのある要素が散りばめられていて、見終わって2週間は経つのに、いまだに考察ブログを漁っては「なるほど〜!」とアハ体験をしたりしている。

ちなみに、個人的に一番よかった考察ブログはこちら。noteに投稿されている映画やドラマの感想/考察は質の高いものが多い。

「アンナ」は、悪者が懲らしめられてスッキリできる勧善懲悪者でもないし、心ときめく恋愛ものでもない。重苦しい社会問題や人間の醜さがこれでもかと描かれているので、見終わったあとは頭も心もぐったりと疲れる感覚がある。

けれど、見ながらあれこれ考える楽しみ、という点では近年のドラマのなかでもピカイチだと思う。格差社会とそれを逆転するための嘘、という意味では映画「パラサイト」と通じる部分もあるが、2時間の映画の4倍の時間を使って描いている分、物語にも厚みがあり、見応えがある。

アンナの向上心と嘘を本当にしてしまうバイタリティは、使い所さえ間違わなければ、社会で真っ当に活躍できたはずの美点でもあった。にもかかわらず彼女が破滅していってしまったのは、本当に彼女だけの責任なのだろうか。

こうなれば幸せになれると私たちが無邪気に信じて追いかけているものが、実は私たちを追い詰めている理由そのものなのかもしれない。

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最所あさみ
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