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世間の判定から、真実はこぼれおちていく

人の行動の理由は、本人にしかわからない。傍から見たら非合理にしか見えない選択も、世の中から批判を浴びるような言動も、その人なりの「理由」が積み重なった結果だ。

他人の行動原理が理解できないのと同じく、他人に自らの行動原理を理解してもらうのは難しい。人は自分の認識の中でしか判断できない。認識の範囲外を補填する想像力も、経験や知識をベースにしているのでバックグラウンドが異なる人のことを正確に想像するのは難しい。このズレが、私たちを柔らかくゆるやかに傷つけあう存在にする。

「流浪の月」は、自分にとっての真実がうまく他人に伝わらないままにこぼれおちていく経験をしたことがあるかどうかで評価が変わる作品だと思う。

真実と事実は違う──。

物語を通して語られるのは、世間の勝手な想像とズレた優しさに主人公が抱くもどかしさだ。自分はかわいそうな子じゃない。「普通」ではないかもしれないけれど、幸せに生きてきた。そう訴えても、被害者という「事実」が、彼女を同情の型にはめてがんじがらめにしていく。

序盤の幸福な時代の描写からして、彼女の育った環境は普通ではなかった。しかし普通でなくても幸福に生きていける環境さえあれば、それは幸福なのだ。その環境を失ってしまったら、他の場所ではもう幸福に生きてはいけないリスクがあるだけで。

「常識」はときどき、本人の気持ちを置き去りにして物事を進めていく。普通はこう考える、普通はこうする、普通はこれが幸せだと、多数決で決められた道に沿って運ばれていく。
主人公はその流れに飲まれそうになりながら、必死で抗う。
はじめは流れそのものを変えようと足掻いていたものの、「普通」の流れに対して自分ひとりができることなどないのだと諦めを覚え始める。そして最終的に、流れから外れることを選ぶ。他人に、世間にわかってもらう必要などないのだと。諦めゆえに、人は強くなる。

この物語に対して、単なる共依存だと片付けるコメントを見かけた。この人は「普通」側から読んでしまったのだな、と思った。主人公の言動をストックホルム症候群だと憐れみ同情してより傷つけた人たちと同じように。

たしかに共依存の要素が強い物語だし、登場人物の多くが病的な何かを抱えている。治療やカウンセリングでもっと幸せな生き方を選べるようになるのではないか、と考える人がいるのも無理はない。それが世間というものだから。

私は河合隼雄の「治さない方がいい病もある」という考え方が好きだ。抱えているものが大きければ大きいほど、抱えてきた期間が長ければ長いほど、病はアイデンティティの一部になってしまうことがある。病があることで保たれていた調和が、治療によって崩れてしまうことがある。だから、完治やではなく共存を目指した方がいい場合もあるのだと。

個性と病の境界線は、意外と曖昧だ。誰かにとっては治療して取り除いてしまいたいような特性も、他の人にとっては才能に映ったりもする。治したいと思わないのであればそれは病気ではない、という考え方もある。普通から外れていたとして、誰にも迷惑をかけず本人が幸福に生きているならば、それは果たして「治療」が必要な病気なのだろうか?

わたしたちはおかしいのだろうか。
その判定は、どうか、わたしたち以外の人がしてほしい。
わたしたちは、もうそこにはいないので。

世間の判定からは、真実がこぼれ落ちていく。真実は当人の中だけにあり、本当の関係性は当人同士にしかわからない。
その諦めが、人を強くさせる。

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最所あさみ
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