型と道と修行、そして『わかる』ことへの考察
先日鳥井さんと登壇したイベント『読むでつながる』の続きと題して、コミュニティマガジン『消費文化総研』のSlackでチャット型の対談をした。(これをスイスイさんとサクちゃんがやっていたシリーズからとって「読むラジオ」と読んでいる)
そこで『本筋と関係ない(笑)』と言いながら盛り上がったのが、『型』の話だった。
最所:剣道って「剣道とは剣の理法の修練による人間形成の道である」っていう言葉を絶対覚えさせられるんですけど、中学一年生とかにはさっぱり意味がわからないんですよね。
でもとにかく一言一句間違えないように覚えないと昇段できなくて。
当時は誰も意味を教えてくれなくて、ただ覚えることになんの意味があるんだろうって思ってたんですけど、私は10年くらい経ってはじめて「ああ、そういうことだったのか!」ってわかったんですね。
そしてその時、先に「知った」という状態になってしまうと「わかる」を阻害することがあるのかもしれない、と思ったんです。
武道や茶道、華道といった『道』がつくものには、それぞれ何かしらの『型』がある。
そして型を習得するために鍛錬する。
宮本武蔵が五輪の書で『千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす』と書いたように、文字通り何十年もかけてその道を邁進していく。
さらに道の種類は違えど、型に共通しているのは基本的に意味を教えられないということだ。
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