「話していないこと」の方にこそ、意味がある。
私には、「聞かれても答えないこと」がたくさんある。
「聞かれるまで言わないこと」も、たくさんある。
大人になればなるほど、言ったことよりも言わなかったことの方に真実が隠れていることがある、と私は思う。
そう、それはまるで、素材を削ることによって彫刻作品が浮き出てくるように。
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なぜ年を重ねるにつれて人は、言葉によって核心に迫ることを避けるようになるのだろう。
「私とあなた」の関係の中であれば、その理由は傷つきたくないからかもしれないし、察してくれるだろうと言う甘えかもしれない。
「私とみんな」の関係であれば、自分がまわりからどう見えるかをコントロールしたり、不用意にまわりに情報を歪められないための配慮、ということもあるだろう。
そしてそれらすべての根底にあるのは、「なにものも傷つけたくない」というずるい優しさなのではないかと思う。
若い頃は、自分が傷ついたことがないからこそ、人の傷にも無頓着だ。
自分が発した言葉が人に与える影響の大きさや、まわりまわってそれが自分に返ってくることも、なかなか想像できない。
しかし、大人になるにつれて私たちは、たくさんのことに傷ついていく。
私の好きな随筆家の一人である森田たまが、著書の中でこんなことを書いていた。
「年を重ねれば決断が容易になると思っていたけれど、実際は逆で、どの立場の人の気持ちもわかるからこそ、優柔不断になっていく」と。
(余談だけれど、彼女のことは「エッセイスト」ではなく「随筆家」と呼ぶ方がしっくりくる)
これは人に何かを伝える上でも同じことなんじゃないかと思う。
言われた方の気持ちやまわりの反応がわかるようになればこそ、1人の人間として口に出すべきことか、テキストに残すべきかどうか、といった点を一度自分の中で咀嚼してみて、「言わない」という判断をする場面が増えていく。
SNSの発信も、友人とのとりとめもないおしゃべりも。
お互いが「話していないこと」にこそ、大切なことが潜んでいる。
こうした姿勢に対して、多くの人は「言わないとわからないじゃないか」と批難するけれど、私はむしろ、感情や思いはある程度を超えると言葉が邪魔をすることがある、と思っている。
本当は感謝なんてしていなくても、尊敬なんてとうに失っていても、言葉だけならなんとでも言うことはできて、しかしそうした姿勢は必ず相手に伝わっている。
「言わなくても伝わる」が傲慢だと言うならば、「言えば伝わる」だって、ある意味言葉に対する傲慢な姿勢なのではないだろうか?
自分の思いや世の中の真理すべてに言葉という枠を与える必要は、きっとない。
世界のほとんどは、まだ言葉になっていない、もしかすると墓場まで持って行かれてしまうかもしれない、ふわふわと揺蕩うようなもので出来上がっている。
そして世界を知るということは、誰かに枠を与えてもらうことではなく、自分なりの言葉の枠に当てはめていくことなのだろう、と思う。
話していないことの中にこそ、真実はある。
私はいつもそう思いながら、この世界を眺めている。
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