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今月読んだ本まとめ(2021.6)

6月はなぜかずっと太宰治にハマってひたすら太宰関連の本を読み漁っていました。なので、太宰好き以外には今月の読んだ本一覧はあんまり参考にならないかもしれませんが興味のある方はどうぞ笑

1. 消費社会の神話と構造

消費の分野で古典的な名著をやっと読了。「いや、もうここに書いてあることがすべてやん…!」と自分の存在価値を見失いそうになるくらい衝撃を受けたのでもっと早く読めばよかったなと。。。
ただ言い回しがフランス語らしくエレガントに難解なので、彼が指摘している構造や課題への意識が自分の中にもないと何を言っているのかわからなくなるかも。私も完全に理解したとは言い難いのですが、自分なりに「こういうことかな」と解釈しながら読んでとても感銘を受けたので、「消費文化総研」の中で複数回に分けて読書会?解説会?っぽいことをやるかも。読んでおいた方がいいけど、一人で読むには大変な本なので。

ちなみにほぼ全ページに線を引きメモをしながら読んだので引用したいフレーズが多すぎて選ぶのが難しかったのですが、このへんの考察は消費社会の構造を的確に言語化されているなと思ったのでぜひ読んでみてください。

消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのパッケージと関わることになる。
差別化された記号としての財やモノの流通・購買・販売・取得は今日ではわれわれの言語活動でありコードであって、それによって社会全体が伝達しあい語りあっている。これが消費の構造でありその言語体系である。個人的欲求と享受はこの言語体系に比較すれば話し言葉的効果でしかない。
余暇は自由時間の享受、充足、および機能的休息などというよりは、むしろ非生産的時間の消費として定義される。
(中略)
経済的には非生産的なこの時間は、差異表示的・地位表示的価値、威信価値を生み出す生産的時間なのである。

2. 斜陽

なぜ急に太宰にハマったのか思い出せないのですが、久しぶりに斜陽を読んだらとてつもなく面白かった…!「人間失格」も20代後半に差し掛かってから読み直してその面白さに気づいたのですが、太宰作品は若さゆえのエネルギーがある程度枯れて人生の苦しみに真っ向から衝突することを諦めてから面白くなるものなのかもしれないなと思いました。

他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。
学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。
階級闘争の本質は、そんなところにありはせぬ。人道?冗談じゃない。僕は知っているよ。自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。死ね!という宣告でなかったら、何だ。ごまかしちゃいけない。
私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。

特に生きる苦しみを書かせたらやはり太宰は天下一品だなあと。生きることは哀しい、それでも執着してしまう人間の滑稽さとかわいさを彼ほど精緻に表現している作家はなかなかいないのではないかなと。

幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。
死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、大変醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。

3. 斜陽日記

ということで、「斜陽」のもととなったとされる太宰の愛人・太田静子が書いた「斜陽日記」を読んでみたところ、まるっと引用しているところがいくつかあって驚き。これはたしかに彼女も「私の名前を併記してほしい」と言うよなあと。とはいえ太宰の作品に昇華する力はさすがで、構成も言い回しもより洗練されているので「斜陽日記」のままではあれだけのヒット作にはならなかっただろうなと。逆にいうと、二つの作品の差分を知ることで太宰の小説家としてのセンスを垣間見ることができます。個人的には、白蛇のエピソードを冒頭に持ってきたのは慧眼だったんじゃないかなと。

と言いつつ、言い回しをまるっとパクっている箇所もあって面白いです。笑
太宰が小説には採用しなかった箇所も、太田静子本人の生っぽい言葉にはそれはそれで魅力的な言い回しもたくさんあるので「斜陽」が好きな人はぜひ読み比べてみてほしい作品。

文学って苦しみ。苦しい世界。虚構の世界。文学に救いはない。苦しみだけ。苦しみを、掘りさげて行けば行くほど、苦しみは底へ底へとかくれて行った。書くことは、空しい、戯れであった。
破壊思想。破壊は哀れで悲しくて、美しいものだ。破壊して立て直して、完成しようという夢。完成と云うことは、永遠に、この世界ではないものなのに、破壊しなければならないのだ。新しいもののために。
悲しみの底を突き抜けたこころの平静さとでも言うような幸福感に似たこころのゆとりが出来て、始めて、心の底に微かなあきらめが湧いて来た。そうして、あきらめとともに、望みが湧いて来たのである。

4. 雨の玉川心中

こちらは最後に太宰と入水自殺した山崎富栄の手記。太田静子に比べると「作品」として、というよりも自分の感情の発露として書かれている印象。特にまだ太宰と出会いたての初期はなんの変哲もない普通の女の子の日記のような文章なのですが、後半にいくにつれて文学的な表現が増えていくのを感じるのも面白いところ。恋の苦しみは人を文学的にする…!

私の悲しみを知っているひとはただ一人。自分自らの手によって私の心を傷つけたあの人。ああ、楽しい恋の苦しみや。涙に濁った恋の楽しみやが、やがて、心に強い痛手を投げようとは、夢にも思ったことはありませんでした。
ああ「信頼」の二字!
こうしたことを書き認めてみているのも、結局はあなたに愛されているのですよということを一層たしかめ、深め、刻み込みたい、哀しい、さびしい心からなのです。せずにはいられない心からなのです。
私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。

そして入水自殺直前の時期になると、太宰への愛うんぬんではなく「太宰と死ぬこと」がすべてになっていたことが痛いほど伝わってきて、恋に思い詰めた人間の恐ろしさを感じます。太宰関連の文献によれば太宰は富栄に対して強い愛情があったわけではなく、あくまで作品の題材に使う目的で関係を続けていたようで、心中した際も入水の前に富栄から絞殺されていたのではないかと言われています。

静子のように愛人として子供を授かることもできず、さりとて正妻にもなれず、切り盛りして来た美容室も手放してしまい、自分にはもう「太宰との恋」しか残っていない、だからこの人と死ぬしかない、という切実な想い。そして太宰を夫と呼んだり、「私の好きなのは人間津島修治です」と言い切ったり、「自分こそが太宰の一番の理解者なのだ」と自分自身に言い聞かせるように書かれた言葉たち。

「不倫」という言葉で片付けてしまうのは惜しいくらいに、苦しみと切実さに溢れた作品でした。

5. 回想の太宰治

そして最後に読んだのが太宰の妻が書いた回想録。愛人ではなく妻の視点から見た太宰がどんな人だったのか知りたくて読んだのですが、想像以上に淡々とした平熱の日常が書かれていて面食らいました。愛人たちと違って恋に浮かされていない分、太宰を見つめる目が冷静で観察眼が鋭い。文章も自分や太宰に酔った感じがなく、すっきりと読みやすい文体なのも彼女のキャラクターを表しているように思います。

怖ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが怖ろしい。これは他への愛情ではない。エゴイズムである。
風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩いてゆく人だった。連れ立って歩きながら、この人は「見る人」ではなく「見られる人」だと思った。近視眼だったが、精神的にも近視のような感じを受けた。彼に比べたら、世の人は案外自分で自分を知らず、幻影の交じったいい加減な自分の像を作って生きているような気がする。

思わずツイートにも書いたのですが、太宰の「弱さ」についてこれだけ的確に表現できる人はなかなかいない気がする…

ちなみに前述の山崎富栄は朱熹の中で太宰のことを本名の「修治さん」と記していたのですが、奥さんは一貫して「太宰」と表記していたのも印象的でした。太宰の実家に疎開していた頃のエピソードなどプライベートな話も多々出てくるのですが、それらもすべて「作家・太宰治」を分析する要素として使われており、彼女は本当の意味で「太宰治」を見つめてきた人だったのだな、と。

入水自殺の際の遺書に「おまへのことを一番愛していました」と書かれていたのを見て「嘘ばっかり」とつぶやいたエピソードは有名ですが、誰よりも自己愛が強かった太宰が自分の次に愛したのは奥さんだったのではないか、とこの回想録を読んで思いました。天才の妻であり続けるには、それだけの器が必要なのだろう、と。

太宰に関して、「天才とは矛盾だらけのものですよ」と言われたことである。この一言は私の胸に、いしぶみのように刻まれた。矛盾だらけ、ほんとに、矛盾のかたまりのような人だった。

5. ヴィヨンの妻



6. 地下室の手記

たまたまAmazonのレコメンドに出て来たので久しぶりにドストエフスキーが読みたい気持ちになって読み始めたら想像以上に面白かった…!「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」が有名ですが、この二作品はキリスト教の基礎教養がないと理解が難しいので途中で脱落する人が多いんじゃないかなと思うんですよね。あと単純に長い。笑

この「地下室の手記」は比較的短く、宗教的価値観が異なっても人間に共通の性質を描き出している作品なので、一度ドストエフスキーを諦めた人にもわりとおすすめ。特に冒頭は「やっぱこの人気合い入った根暗だな…!」と思わされます。10代で読んでいたら中二病が重症化していたかもしれない。

しかしひょっとすると正常な人間というのは、馬鹿でなければならないのかもしれない。
そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか?
すべての率直な人間、やり手タイプは、愚鈍で足りないがゆえに活動的なのだ。これをどう説明したものか?こう説明しよう。あの連中は、愚鈍さゆえに手近な二義的な原因を根本的な原因だと思い込み、かくして、自分の為すべき仕事に対する揺るぎない根拠を見出したと、他人より素早く容易に確信し、それで気持ちが落ち着いてしまう。

ちなみにあらすじとしては、自意識ばかりが高くて鬱屈を抱えている主人公が無理やり仲間に入ろうとしてイケてるグループの送別会にのこのこ出かけていったり、それがうまくいかなくて風俗嬢に謎の説教をするクソ客ムーブかましてたり、客観的にみるとただのろくでなしなのですが、程度の差こそあれ似たような感覚は誰にでもあるんじゃないかと思います。山月記でいう「虎になってしまった」状態ですね。

あとちょうど太宰ブーム?で人間の中にある「破壊思想」、つまり自分が築き上げてきた幸福を自ら壊したいと言う願望について考えていたところだったので、「己のために愚の骨頂さえも望む権利」という考え方には衝撃を受けました。

平穏無事な幸福だけを愛するなんて、どこか見苦しいような気さえする。善かれ悪しかれ、ときには何かを破壊することも、実に気持ちがいいものだ。俺はなにも、特に苦しみの肩を持つわけでも、平穏無事を支持するわけでもない。俺が支持するのは……自分の気まぐれ、それに必要な時に俺が気まぐれを起こすのを保証してくれることだ。

ちなみにこの一説は「消費社会の神話と構造」にも通じる部分があるなと思いながら読みました。私たちは情報によって作り上げられ、その情報を身を持って強化し、情報を再生産している、急遽な「容れ物」なのだと──。

俺たちは、本を取り上げられたらお手上げだ。たちまちまごついて途方に暮れてしまう──どちらへ付けばいいのか、何を守るべきか、何を愛し、何を憎み、何を尊敬し、何を軽蔑すべきか、何一つわかりゃしない。俺たちは、人間であることさえも──本物の自分固有の肉体と血液を持った人間であることさえも、重荷に感じている始末だ。これを恥じて、屈辱的であるとみなし、なにやらいまだかつて存在したことのない普遍的な人間なるものになろうとしている。

7. 春夏秋冬 女は怖い

しばらくは読書するならなるべく頭を使わないものを、と言われて久しぶりに吉行淳之介のエッセイでも読むか〜と思って買った本。彼の小説ももちろん好きなのですが、日本を代表する稀代のプレイボーイだっただけあって、ほどよくくだらないエッセイを書くところも好き。今の時代に読むとさすがに女性差別的だと感じられる箇所も多々ありますが、それも含めて当時の価値観の言語化という意味で面白いです。

中でもこの本はある種の「プレイボーイ指南書」というべきか、本人も含めたまわりのプレイボーイたちの失敗談をもとに、遊び人としておさえておくべき基本ルールみたいなものが書かれていて参考になりました(?)
今も昔も、遊んでてもなんとなく許される人ってたしかにこんな感じだよな〜〜〜と。

結局は浮気で済ませたい女と、台所に一緒にいてはいけない。台所というのは、家庭のにおいの強くするところなので、大いに慎重に警戒の必要がある。
(中略)
台所とか女の部屋での食べ物には、よくよく警戒しなくてはならないというのに、未熟者はうっかりここを見逃しているのですよ。

現代はもはや「女は」「男は」と語ること自体がナンセンスになりつつありますが、男女関係の酸いも甘いも噛み分けて来た吉行の考察は「人間」をよく見ているというか、やはり作家だなあという感じがします。

女房が綺麗に洗ったハンカチにアイロンかけて、四つに折ったものを渡して送り出す。あのハンカチの折り目が怖いですね、これには怨念がこもっていますからね。向うの女も、それを見ると何かを感じる。女は、その時代時代でいろいろやるんですよ。
『女は自分が扱い切れるとおもう男としか、長い関係に入らない』

全体的に男性向け週刊誌に掲載されていそうなボーイズクラブっぽいノリで書かれたエッセイなので女性が読むと不快に感じる部分もあるかもしれませんが、「そういう作品」と割り切ればなかなか面白く読めると思います。あと悪い男の思考回路を学ぶことで、ひっかからないための処方箋になるかもしれない…!笑

8. 死ぬまでに行きたい海

大好きな岸本佐知子さんのエッセイ。自他ともに認める出不精の岸本さんが思い出の場所をめぐり綴った作品です。どれも特別な体験ではないはずなのに、彼女の豊かな感受性を通すと見慣れた景色すらも物語の中の世界のような妖しさが醸し出されてくるので不思議。

昔から、なぜか私は生ぬるい風に吹かれると、ああ生きている、と思うのだ。
生まれて初めて天の川を見たのは、たぶんその時だ。空がびっしり星で埋め尽くされて、背中がぞわぞわした。きれいよりも不気味が先に立った。地球が宇宙とじかに接していることがわかってしまって恐ろしかった。

帯にも引用されていたこの一節も好きでした。

この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうことが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花を綺麗だと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。

昔の写真や日記を掘り起こしていると、記憶から抜け落ちているものの多さに驚くことがあります。行った場所、一緒に過ごした人、抱いた感情。それらの積み重ねで今の私は存在しているはずなのに、もはや「私」に同化しすぎて記憶の輪郭を失ってしまったものたちがこんなにもあるのだと。そしてかたちに残さなかったものは、私がいなくなればその存在を証明する人間を失い、「なかったこと」になってしまうのだと。

でも本当にすべてが記録され保存されるようになってしまったら、ひめごとや謎が持つミステリアスな美しさ、それぞれが勝手に解釈する余白が失われてしまうので、この世から消えてゆく思い出たちを切なく思うくらいがちょうどいいのかもしれません。

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今月は小売関連の英語の本も読んでいたのですが完読にはいたらず。。。リーディングスピードをあげなければ、がんばります。

ということでまた来月もお楽しみにー!

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