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「支えてくれる人」は、実はちょっと遠くにいるもの

『勝つまで泣くな』と言われて育った私は、辛さや不安を誰かと分かち合うのが苦手だ。
結果が思うように出なかったときも、職場できつく叱られたときも、人前では絶対に泣かなかったし、友人の前で涙を流したことも数えるほどしかない。

それが『強さ』とは別のものであると最近やっと理解できるようになったけれど、人に泣きつくのが下手な性分は簡単には変わらない。

身近な人であればあるほど、頼ったり弱音を吐くことが難しい。

そんなかっこつけ体質な人は、私以外にもたくさんいるような気がする。

一方で、泣かない私をしょっちゅう泣かせる場所がある。

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誰かがホームランを打ったといっては泣き、メモリアルデーだといっては泣き、引退だといっては泣き…。
最近は歳のせいで涙腺がゆるんでいるのか、3試合に1試合は泣いているような気がする。

野球を観にいくとき、私は常に晴れやかな気持ちなわけではない。

行き詰まっていたり、不安なことがあったり、もやもやを抱えたまま球場に足を運ぶ日も少なくない。

でも球場で彼らの姿を見ていると、勝手に励まされたような気になって、いつのまにか気分が晴れてくる。

自分があまりいいコンディションでないときほど、選手の一挙手一投足に意味を見出してしまって、つい泣けてくることがある。

もしかすると、自分のためではなく、誰かのためだからこそ感情を涙に変えやすいのかもしれない。

彼らは私の存在なんて知らないし、今日の自分が誰かを励ましていたなんて気づいていないかもしれない。

でも間違いなく私は彼らに日々励まされ、支えられ、野球があったからこそ今の私があるのだと思う。

野球は、たくさんのことを教えてくれる。

いくつになってもベストは越えていけること。

エースは諦めないからこそエースなのだということ。

「環境」を「制約」に変えているのは、私たち自身なのだということ。

打席は勝手に回ってくるものではないということ。

壁にぶち当たったとき、私のそばにはいつも野球があって、選手たちが必死で努力している姿があって、その努力が実を結ぶ瞬間を見てきたからこそ、私も自分の『明日』を信じることができた。

もちろん結果がでないままに終わる姿だって見てきたけれど、その姿が私たちに与えてきた影響を知っているからこそ、自分の地道な積み重ねだって無駄じゃないと信じることができた。

直接相談ができるわけでも、何かを解決してくれるわけでもないけれど、私はたしかに彼らに支えられてきたのだ。

逆に言えば、私もこうやって少し遠くから誰かを支えることができるのかもしれない、と思う。

一人ひとりとじっくり話すのは限界があるけれど、自分の言動がふとしたときに誰かの支えになって、世の中を少しだけ前に進めていくのかもしれない、と。

世の中はきっとそういう小さな支え合いでできていて、愛情や応援を匿名で流通させることで世界はもっと明るくなっていく。

私にとって少し遠くで支えてくれる存在は野球であり、野球選手たちだったけれど、音楽だったり映画だったり漫画だったり、人によっていろんな支えがあるはずだ。

その支えに感謝しながら自分は自分のフィールドでしっかりがんばって、めぐりめぐって支えてくれた人たちへの恩返しをしていくこと。

それがヘルシーな愛情の交換につながっていくんじゃないかと思う。

今年も開幕前のわくわくを感じながら、野球に出会ってよかったとそのありがたさを噛み締めている。

▼「野球を語る」をテーマにしたサークルやマガジンもやっています。

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最所あさみ
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