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美しく滅びゆく「私のすべて」

家の中を片付けていると、存在すらも忘れていた懐かしいものに出会うことがある。それまで記憶の片隅にもなかったはずなのに、たったひとつのモノがきっかけで当時の匂いや温度がそのまま蘇る。きっとモノは思い出を閉じ込めておくための外付けハードディスクで、私たちはモノを通じて自分の歩んできた道を記録しているのだろう。

普段の生活では特に役に立たないけれど、生きるために必要なもの。私が私であるために、必要なものたち。

日本では古来から、大切に慈しんで使うものには魂が宿るとされてきた。それはきっとモノに思い出が重なっていくことで少しずつ「私」が「モノ」に染み出していくからなのだと思う。モノや場所は、少しずつ私の一部になっていく。

長く住めば住むほど、「家」と「私」の境界線はあいまいになっていく。随所に記憶が宿り、「私」の輪郭をはっきりと映し出してくれる。慈しみ丁寧に守ってきたものを手放す痛みは、自分の一部を切り取られる感覚に近い。

記憶って、場所や物に宿っていて、ある場所に行くと突然思い出したり、物を見ると思い出す、みたいなことって、そういうことって、あるわよね?……
もし私がこの地から離れてしまったら、ここでの家族の記憶や、そういうもの全て、思い出せなくなってしまうのかしら…
そうしたら私は、今の私ではなくなってしまうわね……
(映画「椿の庭」より)

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これまで重ねてきた歴史がそこにある。彼女にとって、家と庭は人生のすべてをかけて作りあげてきた作品だったのだと思う。誰に見せるわけでもなく、ただ小さな日々の幸福のために美しく住み継いできた場所。彼女の命が尽きればともに消えてしまうような儚い作品ではあるけれど、その家はたしかに一人の女が幸福に暮らした証だった。

木造建築の家は、あらゆる出来事を優しく受け止めて、幸福で甘やかな記憶だけをその中に留めておく力がある、ような気がする。寂しさや後悔はふんわりと包み込んで、雨とともに家の外に流し出してくれる。草花が光合成をするように、木もまた悲しみを思い出に変えて呼吸しやすい空間を作ってくれているのかもしれない。

映画を見終わったあと、ふと永田和宏のこの歌を思い出した。

わたくしは 死んではいけない わたくしが 
死ぬときあなたが ほんたうに死ぬ

永田和宏

「わたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ」。絹子と家は、まさに永田が歌ったような関係にあったのだろう。かたちあるものは必ず朽ち果てるし、人生にも必ず終わりがくる。

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でも、人がたしかにそこに存在した証としての思い出は、モノや場所に乗せて受け継がれてゆく。たとえかたちあるものがなくなったとしても、人の記憶によって魂は受け継がれ、新たなモノへとつながっていく。

私たち自身も、私たちが大切にしているものも、いつかは滅び朽ちてゆく。けれど、後世にモノを受け継ぎ、モノを通して魂を受け継ぎ、また新たなモノへと魂を宿す営みの中で私たちは生きている。

鑑賞前の私はこの映画に"Japanese Luxury"を期待していた。しかし観賞後に湧き上がった感覚は、"Luxury(豪華さ)"とは異なるものだった。代わりの単語を頭の中で検索していたとき、ふと"noble"という言葉が浮かび上がってきた。"Japanese nobility"、すなわち「日本的高貴さ」だ。

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この映画が描き出したのは、自律的に美しく暮らし、日々を慈しみながら過ごす日本人の高貴さだったのではないかと思う。そしてその高貴な精神は、映画を通して私たちへと脈々と受け継がれていく。たとえ絹子の物語が終わっても、彼女が愛した家屋から人の気配が消えても、その精神はたしかに見た者の心を震わせ、「私」をかたちづくる一片となっているはずだから。

私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。 (後世への最大遺物/内村鑑三

(トップ画を含め、写真の引用はすべて「椿の庭」写真集より)

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最所あさみ
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