やさしさは、100年後の強さを作る #やさしさってなんだろう
このコラムは、soarの#やさしさってなんだろうキャンペーンに賛同して書いたものです。自分なりの「やさしさ」とは何かを考えるきっかけになれば幸いです。
私の人生において追求したいことのひとつに『優しい世界と強い世界の両立』がある。
きっかけは友人がくれた一言だった。
これは人生において大切にしている言葉のひとつである『道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である』や、フィリップ・マーロウが書いた "If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive"にも通じることだと思う。
以前、このテーマについて「『優しい世界』の本来の対義語は『冷たい世界』だろうし、『強い世界』の対義語は『弱い世界』なのであって、『強く優しい世界』は成立しうる概念だ」と書いた。
強さと優しさが両立していない世界は、優しさと弱さが混同されていたり、冷たさと強さをごっちゃにしていたりする。
優しさと強さは、たとえ出発点が違っても結局は同じところに行き着くようにできている、と私は思う。
本当に優しくなるためには自立し孤独に耐えられるだけの強さが必要だし、強くあり続けるには疲れた時に回復させてくれる場所がなければならない。
優しさを一切排除して自分のためだけに走り続けられるほど人は強くない、というのはつい先日書いた『意味』の話ともつながっている。
私はよく『利己を突き詰めると利他になる』という話をするのだけど、今目の前の誰かを蹴落として得をするよりも、譲り合う方が長い目で見ると得だったりする。
社会全体で見ても、強い社会を目指すのであれば弱肉強食の競争原理を突き詰める方がいいのだけど、脱落したら生きていけない世界では多様性が育たず、種としては弱くなってしまう。
だからといって自分のすべてを犠牲にして奉仕するとか、努力しようがしまいが結果が変わらないといった世界は、継続性もないし発展もしない。
じゃあ強く優しくあるとはどういうことかというと、『未来への想像力を持つ』ことなんじゃないかと思う。
私は生まれながらの善人ではないので、目の前の自分の利益を優先してしまいそうになることもあるし、人と接する中で『これは本当に優しいと言えるのだろうか』と悩むことも多い。
今目の前の小石を除いてあげることは果たして本当の優しさと言えるのか、という議論に明確な答えはでない。
ただ、自分にとっては『継続的発展性がある方を選ぶ』ということが今のところの優しさの定義なのかな、という気がしている。
この場合の継続的発展とは『ひとつの正解ではなく、多様な解を受容すること』で、究極的に人が幸せになるために必要なのは自分の軸でいいと思えるものを増やすことなんじゃないかと思う。
優しくなるために強くなる。そして自分の得た強さを優しい場所づくりに還元していく。
この循環を回していくことが、私の原動力のひとつになっている。