恋人とか、パートナーっていうのは、きっと

彼氏やパートナーの有無を聞かれる時、私はいつもこう答えることにしている。

「いたり、いなかったり、ですかね。(笑)」

こう答えると、意外にもそのあと深掘りされない。

まあきっと、ただ単にこんな答え方をするやつは面倒だと思われているのだろうけど、自分自身の恋愛について突っ込まれる方が私にとっては面倒なので、今のところはこの言い方で通している。

というか、そもそも今もし私に彼氏がいたとして、その情報が誰かの行動を変えることがあるのだろうか?と毎回思ってしまう。

人と人との関係は、あくまで1対1のものだと思うから。

そうすると次に聞かれるのが
「じゃあ最所さんにとって、彼氏とか旦那さんって何の意味があるんですか?」
という質問だ。

この質問に長らくうまい返しが見つからなかったのだけど、最近「これだ!」という表現が見つかってからは、あらゆる人にこう答えている。

「んー、ポケモンセンターかな。」

これはこれで、よくわからんという顔をされるばかりではあるのだけど。

私にとって家族や彼氏や本当に身近な友人たちというのは、常日頃から愛をささやき合ったり毎日感謝の念を伝えるような存在ではなくて、むしろ貶しあったりいじりあったりする方がホッとするし、自然だと思っている。

そういえばこないだ「最所さんはボーッとすることとか、ないんですか?」と聞かれて即答で「ないですね…!」と答えたのだが、唯一のボーッとする時間といえば、身近な人たちと話している時間な気がする。

「一緒にいる時間」ではなく「話している時間」にボーッとしていることをここでバラしてしまっていいのかは疑問だが、仲のいい人たちといるときは往々にしてスイッチがオフになっているので、私の脳のバックグラウンド再生も小休止ぎみだ。

基本的にあまり話は聞いていないし、深く考えず脊髄反射で答えている。

本来ボーッとするのは1人の時間にやるべきなのだが、いかんせん私のような仕事をしていると1人の時間は常に書き仕事や企画、誰かとのやりとりに頭を使ったり、ちょっとでも間があけば本を読んだりツイートをチェックしたりしてしまう。

だからこそ、ボーッとしたまま話ができる相手は貴重だし、その時間によって目に見えないような体力の消耗が少しずつ回復していくような感覚がある。

人は、こういう状態を「甘える」と呼ぶのかもしれない。

そして、そんな自由気ままな態度が許されるのは、お互いの存在を全肯定しているからだと思う。

何かができるから、気を使えるから、人に羨ましがられるから一緒にいるわけではなくて、「あなた」だから一緒にいるんですよ、とお互いが認め合えること。

そうやって体力を回復させてくれる存在が家族であり、彼氏であり、本当の友人というものなのではないかと思う。

と、ここまで読んでおわかりの通り、この役割は別に「恋人」というかたちをとらなくても実現できるものだ。

だから私はいつも「いると言えばいる、いないと言えばいない」としか答えられないし、大切なひとは1人に絞るよりも老若男女たくさんいる方がハッピーな気がしている。

と言いつつ、急にどこかのタイミングで結婚したりするかもしれないけど。(笑)

ただ少なくとも私は、「結婚」という契約や「恋人」という存在が幸せとイコールだとは思っていないというだけの話だ。

不幸な結婚もあるし、最低な恋人だっているし、その時その時で幸せでいられそうなやり方を選びとっていけばいい、と思っている。

***

もう記憶にもないような過去の日記をパラパラとめくっていたら、昔の私がこんなことを書いていた。

「わたしは、この人のそばにさえいれば、もう一生泣かずにすむと思ったのだ。」

たかだか十数年程度の人生で何を生意気な、と昔の自分を笑いつつも、人の根本はそう簡単に変わらないものなのだなと思った。

一生泣かずにすむ場所に、これからもう一度出会えるだろうか。

そして私も誰かにとって、そんな場所であり続けられるだろうか。

過去と未来のちょうど境目を感じさせる春風の中で、ぽっかり空いた「現在」に佇んだまま、とりとめもなくそんなことを考えていた。

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最所あさみ
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