勝ち負けの涙は、いつも地面に染み込んで。
バットが空を切り、思わず空を見上げる。
一瞬の空白があって、『ああ、負けたのだ』という実感がじわりじわりと体に染み込んでくる。
その実感に呼応するかのように、ぽたりぽたりと涙が床に落ちる。
負けた。負けたんだ、もう二度とこのチームの試合は見られないんだ。
はじめて野球を見て泣いたあの日から、私の夏にはいつも野球がある。
***
毎年地面に涙を染み込ませる彼らを見守りながら、私もいつのまにか大人になった。
最近はプロ野球に慣れきってしまったけれど、あの独特の金属音とブラスバンドの応援歌を聞くと、自然にあの頃に引き戻される。
少年のような細身の高校生たちが懸命に投げては打ち、ときに甲子園の魔物に捕まりながらドラマを作り出す。
そして試合が終わるたびに勝者と敗者が決まり、負けたほうは泣きながら袋に土を入れる。
これまで何度も何度も目にしてきたシーンだ。
あの頃は、その試合に賭ける球児たちの裏話なんて知らなくても勝ち負けが決まっただけで泣いていた。
自分も試合に賭ける気持ちがわかりすぎるほどわかるからこそ、負けた悔しさや自分の不甲斐なさを攻める気持ちに共感していたからだろうと思う。
あれから15年経った今、私はめったなことでは泣かなくなった。
それが強くなるということだと思っていたけれど、もしかすると『何かひとつに賭ける』ことが減ったからなのではないか、と思う。
大人になればなるほど、良くも悪くも両手に抱えるものが増えていく。
それを人は幸せと呼ぶのだろうけれど、『これが自分のすべてだ』と思うものを抱えて勝負する体験は減っていく。
あの頃、全国優勝という目標は私たちのすべてだった。
だからこそひとつひとつの結果に泣き、感情のすべてがそこから生まれ、その目標によって自分のすべてが支えられていた。
自分というもののすべてを、たったひとつのことに賭けていた。
でも大人になって経験や立場が増えるほど、ひとつのものばかりに傾倒していられなくなる。
それはとても幸せなことで、依存先を増やすことこそが日々を穏やかに楽しく生きるコツだと思う。
ただ一方で、この時期になるとあのたったひとつのものにすべてを賭ける激烈な情熱が懐かしくもなる。
あれはきっと青春時代だけに許された一瞬のきらめきで、大切に箱の中にしまっておいた感情をときおり取り出しては眺めるくらいがちょうどいいのだろう、と思う。
地面に染み込んだ涙は、いつか空にのぼって恵みの雨を降らす。
当日の悔しさがいつの日か思い出話に昇華されて、人生の糧となるように。
あの夏、私たちはたしかに『生きて』いた。
バットの金属音を聞くたびに、もう戻らない時間のきらめきを思い出してはまた地面にぽたりと滴が落ちる。
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甲子園ネタを書いていて、ふと『先生に出場をとめられたときのこと』を思い出したので備忘録的に。賛否両論ある話なので有料ですが、特に有益な話はしていません。
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