「解」より「問い」でつながっていたいの
最近本を読んでいて思うのは、『いい本はいい問いを持っている』ということ。
解ではなく問いがある。それが私の思う『いい本』だ。
その際たるものが小説で、一冊丸々を読みきったところで人生にすぐ役立てられるような知識はほぼ何もない。
古典的な教養書が与えてくれる『こう生きるべき』『こう考えよ』といった示唆も、そのまま使える知識ではなく自分なりに咀嚼しなければならない命題のような問いだ。
つまりそこに書いてあることを盲信して動くのではなく、そこに書いてあることはなんだったのか、筆者は世界をどう把握していて、彼・彼女が一生をかけて紐解こうとしている問いは何なのかを『考えさせる』本こそがいい本だと私は思っている。
私たちは迷ったり悩んだりするとすぐに『解』を求めたくなるから世の中には『解のようなもの』が溢れているわけだけれど、解が外側からもたらされることはなく、必ず自分の中にある。
外部刺激によって解に行き着くというのは、正しい問いの提示、もしくは解に至るための別ルートが示された場合だろうと思う。
他人の解はその人の問いへの答えでしかなく、自分の問いへの答えではないからだ。
これは人に会う時も感じることで、何をやっているかとかそれがどのくらい成功しているかとかではなくて、その人がどんな『問い』を持っているかの方に興味がある。
『夜と霧』風にいえば、『その人が人生から何を期待されているか』をどう自覚しているか、ということ。
現時点で言語化できていないとしても、その命題にきちんと向き合い続けている人とは、やっていることや目指すものがまったく重ならなかったとしても、『問い』でつながることができると思っている。
私は基本的に対立による攻撃性が好きではないので回避する術をあれこれ考えているのだけど、そのための方法のひとつに『解』でつながろうとしない、というものがある。
『解』は具体的すぎて彼我の違いをはっきりさせてしまうので対立を生む。特に自分と立場が近い人が異なる『解』を持っている場合、本能的に自分の生存可能性が脅かされていると感じるので自己防衛のために先んじて攻撃しようとしてしまう。
『解』でつながった集団が往々にして過度な攻撃性を持ち合わせているのは、自分と違う人たちがはっきりと見えすぎる分、自分たちの方が正しいと強く主張しなければならない危機感が醸成されるからなのだろうと思う。
一方で、『問い』でつながるということは、同じ問いを共有するということではなく、もっと孤独なものだと私は思っている。
小林秀雄が
「本当に信ずるものがあるなら、わざわざ徒党を組まずとも己の中で信ずればよいのだ」
と言っていただけれど、自分の問いは自分にしか解決できないものだ。
ただ、その問いを醸成するには内省だけではなく外部刺激も必要で、そのために『問いでつながる』ということが必要なのだと思う。
目指す世界や解決方法は異なるけれど、お互いの問いを共有し、育てつづけていく。
本であれ人であれ、そういう関係を目指していきたいと常々思っている。