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【私という人】

"Hikaruの苗字って珍しいよなあ"

苗字が少し変わっている私は、この一言で沢山の方との繋がりが生まれた気がしました。
そこでの縁で何度も救われましたし、今の私があるのもその縁のおかげです。

そのご縁に感謝して、今まで関わってくれた方には、これを機に更に私のことを知っていただければと思いますし、初めてご覧になる方は、こんな人もいるんだな、と思って記事を読み進めてくれるとうれしいです。

第一章: のびのびとした幼少期

そもそもどこで育ってきたの?

この質問以外に困るんです。笑
簡潔に書くと、

父の仕事の関係で中国の北京で生まれて、幼稚園入学を機に東京に行き、高校からは母の仕事の都合で兵庫に転勤した

とこんな感じです。
"普通の人"ではないかもしれないですね笑

そして、余談にはなりますが、私の苗字のルーツは石川県にあるらしいのですが、私個人は石川県とのルーツはほとんどありません。笑


大雪の中、お騒がせガール誕生


当時大寒波が襲っていた北京の雪の日に生まれた私。
弱高齢出産だった母の喜びは束の間、私は生まれてすぐ黄疸が発覚し、光治療室に。
立て続けにその後も肺炎となり、沢山病院にはお世話になりましたし、この世に生をもらってからというもの、お騒がせガールっぷりを大発揮していました。笑

このような感じで、幾度か生命の危機にさらされていましたが、なんとか生き伸び、元気に過ごしていました。

が、しかし、もう一つ問題がありました。
それは"全く喋らない"ということ。

当時中国で生まれたにも関わらず中国語は喋れず、両親は日本人、ベビーシッターは韓国人、長らくお世話になった病院はイギリス系の病院だったこともあり、沢山の言語が小さい頃から飛び交っていた結果、母国語が分からず混乱し、私は1才にっても一言も喋らなかったといいます。

そんな私を心配した母は、結局私を連れ、急遽日本に帰り、私を日本語塾に通わせていました。
その結果、日本語は日に日に上達し、幼稚園では“うるさい“と言われるほどおしゃべりが大好きになっていました。

お騒がせガールの誕生

幼稚園の私、5歳にして最大の壁

一件落着かと思いきや、ここで一つ目の大きな壁がありました。

"お受験"

です。

お騒がせガール、なんと、子供達だけでなく親同士もピリつく、あの"お受験"を受けようとしていました。笑

特に心配性の母親は不安でたまらなかったそうです。
それもそのはず、日本語が喋れるとは言ってもまだ不慣れな部分もあった私が、神奈川県にある私立のミッションスクールに行きたいと言い始めたからです。

当時の私は、というと、あまりプレッシャーは感じておらず、ただひたすらに勉強をこなしていたのですが、私自身、要領がいい方ではなかったのでそういった点では沢山苦労しました。

地頭がいい子ならすぐに終わるようなものに時間がかかってしまったり、物事の理解力もずば抜けていた方ではないので、とにかくなんでも数をこなして身に染み込ませるしかなかったり、、
ただ、継続することに関してはあまり苦に感じる方ではなかったので、そういった性格にはもしかしたら救われていたのかもしれません。

その結果、第一志望に合格。

当日、筆記でわからない問題があったり、面接でもヒヤヒヤした場面があったようですが、勉学だけでなく他の要素も見てくださった学校側のおかげで、なんとか合格をいただき、(本当に奇跡)中学3年生まではすくすくと神奈川の学校で育ちます。

おしゃべりが楽しくなって来た頃の写真

第二の壁、そして転機

話が少し前後しますが、実は、中学2年の冬に私は母親から

"お母さん、関西に行きたいのよね"

と言われました。
背景としては、母親が製菓会社を立ち上げる上で、地元である大阪から近いところに住んだ方が人材が集めやすい、とのことでした。

言われた直後は頭が真っ白になりました。
その後、"いいよ、関西行こう"とは言ったものの、

"私の今の学校の友達は?"
"初めての土地で方言もある中でやっていけるの?"
"今から受験勉強しても落ちたら中卒、、?"

といった気持ち、そして何より
"どこの高校に行こう"

このことで頭がいっぱいでした。
元々中高一貫校の女子校に通っており、そのまま周りの子達と一緒に進学すると思っていたので尚更でした。

いきなり受験生宣告されたのも同然だったので当時は混乱しましたが、ここからすぐに私の受験生活が始まります。


私はどこに進学するのか、そして高校受験の結果は____

今回はここまでにします!
次の記事に高校時代より後のことも加えて記載したいと思います、それではまた👋

Hikaru.


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