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有限と無限

最近、同じものを異なる角度からみるということが、大切だなあと思った。
というのも、時間に関する考え方は、ひとそれぞれ違うものだから、自分なりに基準を定めると言うこともした方がいいのではないか、と考えたからだ。
今回取り上げるのは、たった二つの見え方だ。
最初の見え方は、膨大で、ほぼ無限に見える終わりのないものを有限化するというものだ。
これは、大きすぎる値を、ちぎって食べることと同じだ。例えば、何か、新しいことを始めて、それをこなそうとするとき、最初、大きなもののようにみえる。こうした場合に使えるものであるといえる。
もう一つの見え方は、一見、有限にみえることを、無限化することだ。
これは、得意な分野や、すでにほぼ網羅しており、できることや、知っていることがある場合に、用いると良い方法だ。
ところで、ひとそれぞれ時間の感じ方が異なるということは....

コップに半分水を入れて、多いと思えば、ポジティブ、少ないと思えば、ネガティブである、というような考え方に似て、同じ有限の時間を、多いと感じたり、少ないと感じることがある。

ここでいいたいのは、多いと感じたら、有限化し、少ないと感じたら、無限化すると言う単純なことなのだが、いささか説明が難しい。
ところで、質とは、満たされた状態と、満たされない状態が存在するのは、みなが、感じることのあることである。
つまり、質とは、満たされているなら、豊かにあり、満たされていないなら、貧しい状態にある、ということだ。
ゲーテがいうように、「なすことに興味があるが、なされたことには、興味がない」というようなものを引用すると、なすことには、多くあるように感じるため、有限化し、帰納性収束学習をし、逆に、なされたことには、少なく感じるから、無限化し、演繹性発散学習をすれば良いということだ。
なされたことが、かつて、重要だったものが、行動し、時を経て、どうでもいい、興味のないものに変わったといえ、なすことは、重要で、興味あることなのだといえる。
このため、異なる時系列で、同じ対象を、どうみるかによって、対策を変えねばならないのではないか、というのが、今回のポイントだ。
私の場合だと、科学、芸術、社会が、格下げされ、なされたことになり、興味を失い、少なく感じるものになった。ゆえに、無限を有限化すると良いということになる。(帰納性収束学習)対して、なすことに興味がある、多く感じるピアノや法学、雑学は、有限なので、無限化していくと良いだろう。(演繹性発散学習)
ここで重要なのは、どちらの型にしても、同じ時間であるということだ。(t1=t2)

満たされたら、飽きる
ならば、十分に、飽きたものは、格下げし、冷静に効率化できるチャンス!
「帰納性収束型」(内的報酬)

満たされていないなら、飽きない
ゆえに、十分に、飽きるまでやる、格上げし、情熱を持って、網羅するチャンス!
「演繹性発散型」(外的報酬)

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