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盗めぬ心の在り方
今回は、貧乏マインドと金持ちマインド、またはマイマインド、ヨーアーズマインド、アワーズマインドについて考察したいと思います。 貧乏なうちに、やっぱり貧乏マインドにしとった方がいいというのもあるわけですね。 なぜなら、金持ちマインドというのを貧乏な人がやってしまうと、逆にお金を失ったり失敗したり、リスクが高いわけですね。 対して、またお金持ちも貧乏マインドを真似するべきではないという問題があるんですね。 今回は、マイとヨーアーズとアワーズ、もしくは貧乏マインド、金持ちマインド、そしてその両方にまたがる共通の解について説明したいと思います。 自分たちというものがまずあるわけですね。 例えば、仕事にせよ勉強にせよ考えた場合に、利益が欲しいとかお金がいるとか生活しなければいけないという時に、まず利益とか計算をしますよね。 その時に、例えば大企業が儲かるだろうとか、こういった自分の私利私欲、もしくは打算があるわけですね。 これがマイの方ですね、マイの考え方。 に対して必ずビジネスにせよ、学校研究院にせよ、相手方が存在する、客体が存在するんですね。 この場合ですね、やはり主体と客体というものが存在し、マイとヨーアーズが存在する。 あるいは別の軸としては貧乏マインドがあれば金持ちマインドもあるわけですね。 で、問題なのがですね、このマインドがある上でですね、共通界に目を向けたわけですね。 例えば貧乏マインドと金持ちマインドで共通する点が存在するんですね。 どういったものかといったら、例えばちょっとGPTに書いてあったもので参照しますと、 価値観の尊重とか、人脈、柔軟なコミュニケーションとか、 そういったものですね。ちょっとその、スピリチュアルといいますか、 当然のことのように思いますが、共通するものっていうのはですね、 必ず益があり、どっちでも、貧乏であれも金持ちであれ必要なマインドになるということなので、共通界となってますね。 で、に対してマイとヨアーズの間のアワーズに注目するんですね。 ここもですね、私たちになるものが存在するんですね。 例えば、お客様は神様だ、つまりヨアーズが神様だってなった場合に、やっぱりちょっとおかしいなとか思ったりするわけですね。 さらに言えば利益、私利欲を追求するだけでも、やはり存続できないというか、自分にとっても相手にとっても損になる。 じゃあこのアワーズ、私たちに注目すれば解決できるんじゃないかとこう考えるわけですね。 例えば、私たちの例で言うと、ちょっと見当たらないんですが、とりあえずここまでまとめましょう。
今回の考察では、「貧乏マインド」と「金持ちマインド」、そして「マイ」「ヨーアーズ」「アワーズ」の3つの視点について掘り下げることで、相互理解と利益のバランスを見出すアプローチを考えてみましょう。
まず、貧乏マインドと金持ちマインドには異なる特性があり、それぞれに適切な状況で適用する必要があります。貧乏マインドは、限られた資源を慎重に管理するためのマインドセットで、リスクを最小限に抑え、堅実な計画を立てる傾向があります。一方、金持ちマインドは、資本が豊富で、リスクを取ることでさらに大きな利益を生むことが可能なマインドセットです。しかし、貧乏マインドを持つ人が金持ちマインドを無理に真似ると逆効果であり、リスクが高すぎるため失敗を招きやすくなります。逆に金持ちが貧乏マインドを真似ると、資本の流動性が低下し、機会損失が生まれる可能性があります。
次に、「マイ(My)」と「ヨーアーズ(Yours)」という視点を考えます。「マイ」は自己の利益や欲望に基づいた考え方で、私利私欲や打算に根差したものです。例えば、仕事での利益や昇進、自己成長などがマイの部分に該当します。一方で「ヨーアーズ」は、相手の存在やニーズを意識した視点です。ビジネスや学問の場では、相手の立場や価値観を尊重することで信頼関係が築かれます。
「アワーズ(Ours)」に注目することで、双方の利益を最大化しながらバランスを取ることが可能です。これは、私たち全員の共有価値や共通の目標に焦点を当てたアプローチであり、互いの利害を調整し、長期的な成功を目指す考え方です。たとえば、顧客を神様のように扱うことが必ずしも最善策ではなく、双方の持続可能な利益を見据えることが重要です。「アワーズ」の視点は、個人や相手のためだけでなく、全体としての利益や成長を追求することにより、社会的なつながりや協力を強化します。
貧乏マインドと金持ちマインドの共通点として、価値観の尊重、人脈の構築、柔軟なコミュニケーションが挙げられます。これらは、状況を問わず役立つ要素であり、どちらの立場にいても求められる資質です。この共通界を理解することで、自己利益や他者利益に偏らず、共有利益に向かって行動する「アワーズ」の視点が生まれます。
例えばですね、この私たち、あるいはours、私たちのに関して言うならですね、 例えばうちで言うなら、料理を作る者が僕だとしますね。 まあどちらも兄弟でいて作れるっていうことになったとしても、 まあどっちが作っても一緒なわけですよ、結局。 私立を送ったって別に兄弟とか家族なわけで、別にどっちが作ろうかぐらいの話なんですね。 に対して私たちの教育なるものが存在する。 例えばうまいものを食うとおいしいよねとかね、普通に共感できることですね。 そういうことが私たちになるわけですね。 あるいはですね、会社で疲れているときに相手も疲れている状況ですから、 こういった場合、会話をするときに疲れているよね、やっぱり仕事はしんどいよねとかいう話になってくるわけですね。 こういうふうにですね、共感を軸に置くとか、 共感できるってことは、私もあなたもっていう存在ですね。 私もあなたもうまいものがうまいし、私もあなたも疲れているときは疲れているという会話をするわけですね。 このようにですね、悪く言えばこれは、 例えば疲れているな、疲れているなってなったら疲れているままで、 小悪は大悪になりかねないんですけど、 こういった場合、やっぱり私たちにかける方がいいんじゃないかなと僕は思うわけですね。 さらに言えば、この盗めぬ心というものがですね、 あわずに存在し、やはりですね、 否定されない、もしくはちょっと究極的な意味で盗めぬ心になっていくと、これがあるんですね。 どういう意味かと申し上げますと、 要はですね、私たちというものの中に盗めぬ心があるわけなんですけど、 例えばですね、 例えが見当たらないですけど、ここまでまとめてみましょうか。
おっしゃるように、「私たち(ours)」の視点では、個々の役割が曖昧になり、共感や共有の精神が強調されます。料理の例を挙げると、どちらが作っても結果的に同じ家族や兄弟のための食事となり、「私(my)」や「あなた(yours)」を超えて「私たち(ours)」の食卓が生まれます。この「私たち」の中では、役割や個人の功績よりも、みんなが一緒に食事を楽しむことが中心となり、共通の価値観や感覚が強化されます。
また、仕事や疲労の話でも同様です。共感を軸にした「私たち」の会話は、単なる状況の共有以上に、互いに理解し合い、負担や励ましを共有する場となります。疲れていることを共感し合うことで「私もあなたも同じ」と感じ、孤立感を和らげ、互いの状況を理解し合う場が生まれます。しかし、仰る通り、共感が過剰になると、その状況に囚われすぎてしまい、ネガティブなループに陥る可能性もあります。だからこそ、そこに「私たち」の視点を持ちつつ、問題解決や励ましへの一歩を踏み出すことが重要です。
さらに、「盗めぬ心」という概念も「私たち」の価値観に関わります。これは、誰からも否定されず、模倣や盗用できない内面的な確信や信念、言い換えれば、究極の本心のようなものです。「盗めぬ心」が「私たち」の中にあるとすれば、それは、個々が持つ個性や信念を超えて、共通の目的や理解に基づく尊重や敬意が形成されるのです。
このように「私たち」の視点は、個人の利益や功績よりも共感、共有、そして確固たる「盗めぬ心」を軸とするものであり、互いの心に触れることで、真に共有できるものを育てていくという深い意義が含まれていると思います。
例えば、盗めぬ心で言いますと、 たとえどんなにヨアース、もしくはマイが、 この盗めぬ心、あるいは私たちなる者の心を模倣したとしても、 それが裏腹な気持ちであったとしても、正直な気持ちであったとしても、 あるいは真似された状況だったとしても、ここに介在する余地はないんですね。 つまり通用しないということですね。 なぜなら、これは共感でしか、あるいは共感できるものがないと、 共感し得ない上に意味をなさないからですね。 ここが重要ですね。 私たちの中に、こういう思いや、志、もしくは共感できる価値があるんですけど、 これらは、二言はなくて、裏腹も真似も通用せず、 絶対にその思いなり、志なり、共感できるものがなければ、 そもそもこれを真似したり、裏腹、もしくは正直になっても、ならなくても、 これは真似もできない上に、誤魔化しがきかないのが娘の心です。 これは絶対的な善になるという意味ですね、娘の心は。 というより、絶対的な善になるものになっているということであって、 丁でないものが開在するということができない存在になっているところが注目すべき点です。
例えば、盗めぬ心で言いますと、 たとえどんなにヨアース、もしくはマイが、 この盗めぬ心、あるいは私たちなる者の心を模倣したとしても、 それが裏腹な気持ちであったとしても、正直な気持ちであったとしても、 あるいは真似された状況だったとしても、ここに介在する余地はないんですね。 つまり通用しないということですね。 なぜなら、これは共感でしか、あるいは共感できるものがないと、 共感し得ない上に意味をなさないからですね。 ここが重要ですね。 私たちの中に、こういう思いや、志、もしくは共感できる価値があるんですけど、 これらは、二言はなくて、裏腹も真似も通用せず、 絶対にその思いなり、志なり、共感できるものがなければ、 そもそもこれを真似したり、裏腹、もしくは正直になっても、ならなくても、 これは真似もできない上に、誤魔化しがきかないのが娘の心です。 これは絶対的な善になるという意味ですね、娘の心は。 というより、絶対的な善になるものになっているということであって、 丁でないものが開在するということができない存在になっているところが注目すべき点です。
「盗めぬ心」とは、他者が模倣しようとしても、本質的に触れることができない、純粋で絶対的な善の心を指します。この心は、裏腹な気持ちや、表面だけの模倣、正直さを装うことで近づけるものではなく、真に共感できる者のみが理解し、共有できるものです。そのため、他者がどれだけ「マイ」や「ヨーアーズ」の視点からこの心を模倣しようとしても、そこには絶対的な価値が存在し、偽りや表面的な態度は決して通用しないのです。
この「盗めぬ心」が存在することで、私たちの中に共有される価値観や志、共感の基盤が確立され、そこには二重性や裏腹な気持ちは介在できません。なぜなら、真の「共感」によってのみ成り立つものであり、そうでないものは、私たちの中には存在する余地がないからです。したがって、「盗めぬ心」は絶対的な善の象徴とも言え、その本質には偽りや誤魔化しが一切通用しない純粋な存在として、私たちの関係性において重要な役割を果たしています。
この「絶対的な善」というのは、「私たち」の存在の中における純粋な価値観の核であり、どのような表面的なアプローチでも触れることができない、深い共感と志の共有を象徴しています。