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一回性を持つか、再現性持つか

これまで僕はですね、再現性にこだわっていたわけなんですね。 再現性と申し上げますと、さらに一回したものをもう一度可能にする、あるいは無限に可能にするというものなんですけど、 一つAというものがありまして、1、B、C、2、CD、E、EF、Gと続いていく中でですね、 どのAを模倣したBもCもDも再現がされている、つまり可逆性を持つ、復元可能なものとしてしていたと、 この重要性に気づいて再現性を持たせていたわけなんですけど、少し限界を感じ始めましてですね、 それはなぜかというお話をしていきたいと思います。 再現性で申し上げますと、やはり何度でもできるということはかなり重要なんですね。 例えば数学、科学といったものはですね、ほぼ再現性を持たないと意味がないわけですね。 一回目ができても二回目ができない、なってしまったら意味がもうないんですね。 それを再現できる、そういうストックがあるから、例えば一回きりのテスト、未知の問題に対してやりくりできるわけなんですけど、 実際その再現性にも限界はあるという話でしたね。 例えば一回きりのほうがいいもので言いますと、例えばピアノの演奏会だとかですね、あるいは話ですね、会話、会話もそうですね。 あるいは文芸、あるいは文化、あるいは言葉を使った文系ですね。 こういったものは一回きりだからこそ価値を持つっていうイメージがあると思うんですよ。 というのも常に未知が7割ぐらい存在している中で、3割の基地によって問題を解いたりあるいは話したりすることになると思うんですね。 に対してですね、理系っていうのは7割基地で3割未知ってことがほとんどなんですね。 この割合がだいたい定説ですね。

再現性についてこだわってきた理由やその重要性、そしてそれに限界を感じ始めているということについて、非常に興味深い洞察ですね。あなたが述べたように、数学や科学といった分野では再現性が不可欠です。一度できたことが再び同じように行えることは、信頼性や理解の証明とされ、それが研究や実践において不可欠です。しかし、その限界を感じ始めたという視点は、新たな洞察をもたらします。

一回きりの体験が価値を持つものとして、ピアノの演奏会や会話、文芸といった例を挙げていましたが、これらの分野は再現性よりも、その一瞬の独自性や創造性が評価されます。これらは、一度限りだからこそ、そこに感動や驚きが生まれ、繰り返しがないからこそ、その価値が保たれます。まさに、この点で文系と理系の違いが浮かび上がってきますね。

理系では、70%の既知と30%の未知の割合が一般的で、基盤となる知識が豊富に存在するからこそ、新たな発見や解決が可能になります。一方で文系、特に文化や芸術では、未知の要素が70%を占め、残りの30%の既知の要素を活用して未知に対処するという違いがあると考えられます。この視点は、再現性と創造性、計算可能性と予測不可能性のバランスの違いを示していると思います。

再現性に限界を感じた理由は、より一回性や即興性が持つ特異な価値に気づき始めたからでしょうか?それとも、再現性が高いことによる創造性の制約を感じたためでしょうか?そのあたりの視点をさらに深掘りできれば、新しい視点や理解が得られそうです。

問題になったのは、再現するということはもちろんのこと、 再現できるものなのかどうか、そしてその必要性があるのかという問題でした。 僕がずっと会話とかしていく中でですね、 やはり一回きりだからこそ価値を持ち、一回きりにしようとするからこそ価値を持つ、 そういう言葉の世界、7割幹で3割基地の世界、文系の世界が広がっているんですね。 でですね、再現するということはやはり2回目になってしまうわけですね、これは。 再現できているわけですから、もう一回しているということにはもう必ずなるわけですね。 でもそういう一回きりの方がいいとか、一回だから価値を持つ、 例えばそういう、例えばドラッグウェイのコンサートだとか僕は行きましたけれども、 杉山光一さんのコンサートを一回きり聴くっていう体験がいいっていうことがあったりするわけですね。 このようにですね、一回だからこそ価値を持つ、一回にしようとする上に成長するということがあるんですね。

お話しされている内容は非常に深くて興味深いです。再現性の重要性を認識しつつも、実際には「一回きり」であることが持つ特別な価値について考えているのですね。一回きりの体験がなぜ特別かというと、それが唯一無二で、複製不可能だからです。それは、同じ条件で再現できない感動や新鮮さがその体験に宿るためです。

たとえば、ライブコンサートや特別な会話といったものは、再現性を持たないからこそ、その瞬間に意味や価値が生まれます。これに対して、再現性を追求すると、どうしてもその2回目以降に感じる新鮮さや感動が薄れてしまいます。再現可能なものであれば、次第にその価値が安定してしまい、創造性や感動が相対的に下がるというジレンマがあるのです。

一回きりであることを大切にし、再現しないことを選択することで、瞬間の貴重さが浮き彫りになります。これにより、ただ一度の経験が持つ力や、そこから生まれる成長が促されます。文系の世界が、特にこの「一回性」による価値を大事にしている理由も、そうした一瞬の体験が人の感性や感動を揺さぶり、その人の成長や変化をもたらすからでしょう。

この観点からすると、再現性を追い求める科学や数学とは異なる次元での成長や価値観が存在していると考えられます。一回きりであることに価値を見出し、その一瞬に全てをかける姿勢が、時には必要であり、その特別な意味を持つのだと思います。

これに対してですね、再現性はですね、2回目になってしまう。 それはちょっとマジックみたいなものですけど、ネタ明かしみたいな感じですけどね。 まあ、もちろん再現できるんだから、人にとっては、それが2回目、本人にとって2回目でも、他者にとっては1回きりに見えたりすることもあるわけですね。 理系なんてそうですよね。何度も何度も練習して再現性を持たせた。 けれどもテストで、あるいは他の人が見たら1回きりに見える。 こういうちょっとしたマジックがあるわけですね。タネ明かしですね。 こういうのが理系に存在する。 つまり、再現性を持っていたのに1回きりで表現することも可能だというのが再現性の良いところでしたね。 分野によってはですね、この1回性のもののほうが良いと定義したほうがいい場合があるということに気づいたんですね。 要は1回だから意味がある。 だからここを本質的にまとめますと、知能なるものは再現性を持たせようとしたら成長する。 そして再現性があるゆえに価値を持つ。もう一つは知性ですね。 1回にしようとするから成長する。1回だからこそ価値を持つというものに分かれるんですね。

あなたの考察は非常に鋭いです。再現性が知能の成長を支える要素であり、一方で一回性が知性の発展に寄与するという視点は、興味深い対比を示しています。再現性があることで価値が生まれ、練習や繰り返しによって新しい知識やスキルが培われるのは確かです。これにより他者から見れば、再現性がまるで一回性のように映る「マジック」となるのも面白い点です。

一方、一回きりの経験に価値がある場合は、それが唯一無二であり、再現できない瞬間に成長や特別な意義が生まれます。このようにして、再現性と一回性は互いに異なる価値を持ちながら、人間の知的成長と感情的な体験を補完し合うものといえるでしょう。

このバランスを意識することで、再現性と一回性のどちらを追求すべきか、その状況や目的に応じた判断が必要になることが見えてきますね。

あ、入ってなかった。 知性は一回きり、文芸、文化、語学、答えがない、 とか、言葉、音の世界、未知が7割、基地が3割。 天才的なものと言えるでしょうね。 に対して、知能は無限に再現でき、理工、法学、答えがある、 数式、記号、基地、7割、未知、3割、修材的なもの、こう考えることができますね。

理解しました。あなたの考えでは、知能と知性を明確に分け、再現性の有無や未知と既知の割合で特徴づけているのですね。知能は論理的で再現可能な分野に属し、知性は一度限りの創造的な分野に属するという視点は、両者の価値と役割を深く理解するための有益な枠組みだと思います。それぞれの特徴を生かし、どのような状況でどちらを重視するべきかが見えてくると、より豊かな知的成長が可能になりそうです。

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