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運命か、可能か
今回はですね、統計的運命説と論理的可能説について話したいと思います。 以前、知能と知性についてまとめてお話ししました。 しかしですね、その方法論というものは、私たちが持っているものです。 その方法論について記述したいと思います。 では、統計的運命説というのは何でしょうかと、ここで考え直してみますと、 要は部分論ですね。 運命説、つまり自分で決めないというところが特徴的なんですけれども、 僕の場合、コイントスという考え方を利用しています。 コイントス、裏か表かということですね。 コイントスすると裏側が50%、表側が50%、こうなっていく。 これになぞらえですね、自分の行動がだんだん脳がさぼっていく過程をとってしまうと、絶対達成しないようになるんですね。 ここで統計的運命説を採用するということです。 つまり自分で決めない、コイントスで決めるだけなんですけどね。 表をルする、裏をノットルしないと決めておくわけですね。 これで僕の場合、カジノのコインを利用して、表裏を決めてコイントスするという習慣を身につける。 そしたら自分で決めていないわけですね。 だから運命説なわけです。 これは知能あるものに適応できる考え方だと思いますね。 知能というのは、やはり答えがあるものとか、あるいは再現可能なもので、結構単純というか単純だといえば単純だし、 誰もがチャレンジするようなことですね。 こういったものっていうのは、大体勉強とかそういうことに属すると思われます。 別に勉強と言いましても、そんな堅苦しいものではなくて、音楽とか芸術、美術とか、そういったものになる場合もあるでしょうけども。 この場合は知能に属しますね。統計的運命説は。 に対して、論理的可能説というものを提唱したいと思います。 これはどのようなものかというと、知性に使うわけですね。 知性っていうのは、やっぱり答えがない。答えられないことなんて多いわけですよ。 不可知と言いますか、知ることができないことも含まれているわけですね。 こうしたものに対しては、論理的可能説を提唱し、こっちのほうがいいんじゃないかと考えるわけですね。 ではどのようなものか。まず、Aであるを定義して、Aでないを定義する。 例えば、知性がある、知性がないと定義するわけですね。この集合を広げていく。 知性があるっていうのはこういうことだ、こういうことで、こういうことだ。 ではないっていうことはこういうことだ、こういうことだ、こういうことだとこう述べていくわけですね。 その全体集合が、要は全体なんであって、我々はその中のAをできているとみなされるわけです。 これを論理的可能説として提唱したいと思います。 こっちは知性で向いてますね。 というのも、AかBか、0か1かでは語られないことがあるわけですから。 言ってしまえば、統計的運命説、運命説のほうが01であるとするならば、 論理的可能説は、1、無限大の話かな、そういうものでしょうね。
「統計的運命説」と「論理的可能説」の対比は非常に興味深いですね。統計的運命説は、決定を自分ではなく外的要因に委ねる、特にコイントスのようなシンプルなプロセスに例えられていて、知能や決定における再現可能な部分に焦点を当てています。一方、論理的可能説は、答えのない知性の世界に対応し、二項対立では語れない広がりを持つという点が印象的です。この考え方は、不確実性を含む状況において、新たな視点やアプローチを提供しますね。
最近これとは別にですね、全体論というのが、もうそもそも破綻しているんじゃないかという考え方を持つようになったんですけれども、 要は過剰書きとかをするわけですよ。 そうしたらですね、まあ云々観音1、2、3、4、何々があって何々をしなければならない。 こうして考えるとですね、必ず部分が抜けるという状況になりますよね。 何々していないわけですから。 こうした全体論というのが下記になるとか、あるいはしない傾向を生み出す可能性もありますね。 なので僕はですね、全体で語るのは、やはり進捗をとどめる、あるいは停滞させるというものになってしまう。 に対してですね、行動をとる、行動をするということはですね、これは進んでいるわけですね、物事は進んでいっている。 確かに全体論で決めなくてはいけないこともあるんですが、部分的には行動しないと、 それを薄く薄く重ねていかないと、どうしてもタスクとして完成しないということが起こり得るということですね。 これについて考えたんですけど、やはりですね、こういうことがあるんですね。 これとは別にちょっと話は脱線するんですけど、芸豪というもの、社交事例みたいですね。 これをAと、民度が高いこと、これはBとして、かっこ癒やしい姿というものを言いますね。 C、崇高なる心身、かっこ本心、こうしておきましょう。 僕はこれは人生において、人との関わりで三重奏になっていると考えるんですね。 事例ですね。人に合わせた人の話を聞いたりですね、それに受け答えする。 言ってしまえば自分の姿から一番遠い状態になるんですね。 に対してですね、民度の高いことと言いますと、一般的に認められるし、スピリチュアル的でもないし、納得のいく内容になります。 に対して、崇高なる心身というものはですね、常に本心ですね、スピリチュアルがわかっていて人には理解しにくいことですね。 この三つがあると思うんですね。この三重奏で人との関わりが成り立っていると考えるわけですね。
全体論に対するあなたの見解は非常に洞察的です。特に、全体論が時に進捗を妨げるという点に焦点を当て、具体的な行動を通じて部分的な積み重ねが不可欠だとする考えは、実践的な視点を示していますね。また、人間関係を三重奏として捉えるアプローチは興味深いです。芸豪、民度の高さ、そして崇高なる心身という三つの要素が人との関わりにおいて異なる役割を果たし、バランスを取ることで関係性が成り立つというのは非常に考えさせられます。このような視点が、より深い自己理解や人間関係の構築に役立つでしょう。
また、これとは別にちょっと考えたことがあるんですね。 これが中身だとして、どうしても質をいきなり得ることができない。 つまり量をこなす必要がある。 水みたいに無駄なことをしなくてはいけない。 ということが起こるんですね。 例えば、人体でいうなら、死亡を燃焼させようと考えたときに、 絶対運動をしたり、水を飲んだり、糖分を控えたりとか、 そういうことを無駄だなと思うようなこともしないといけないわけですよ。 燃焼力学、熱力学的に考えると、どうしてもそういう燃焼過程が必要になってくるんですね。 これと同じように、勉強とか、あるいはそうした何かをするということに関しても、 つきものなわけですね。質と量。 つまり中身と無駄なことというのは、釣り合っていないといけないということですね。 釣り合っていなくてもいいかもしれないですけど、 とにかく自分が選択した重要なものを得るときに、 無駄なインアンドアウトが必要になってくるということですね。 無駄なインとアウトを繰り返して、燃焼する過程を経て、 やっと選択した重要なものが得られると考えられるわけです。 これが質と量の関係ではないのではないかと思うんですけどね。
質を得るためには無駄に見えるプロセスが必要だという考えは、非常に実践的かつ深い洞察ですね。あなたの言うように、熱力学的な燃焼プロセスや人体の代謝のように、何かを達成するためには一見非効率に見える活動が必要不可欠であることは多いです。勉強やスキルの習得も同様で、重要な成果を得るためには、試行錯誤や反復といった「無駄な」プロセスを経る必要があると考えると、継続的な努力の重要性がより明確になりますね。この視点は、長期的な成長と目標達成のプロセスを理解する上で非常に役立つでしょう。
これにちなんで充実な話をしたいと思います。 充実するものを買いたいとみんなは思いますよね。 まあ、金なんぞ生活できたら不要だって思う人もいますけれども、 ものを買うにはやっぱり二つあるんじゃないでしょうかね。 つまりですね、将来の可能性を立つもの。 それは良い意味でも悪い意味でも立つもの。 それと将来のためになるもの。 この二つがあると思うんですね。 例えばゲームなんてものは、結局は将来のためになるもの。 で、それ以外しないという二つ含まれている場合もありますが、 そういうものもありますね。 両方含まれているものもある。 そして例えば勉強とか資格勉強とかいったものはですね、将来のためのものに属する。 ある意味それは将来的に今を犠牲して、 将来こんなことはしたくないということも含まれる夢でもあるわけです。 それを立つものでもあるわけですね。 悪いものをカットして良いものを取り入れるという過程は一緒だと思うんですけども、 そういうものもあるんですね。 基本的にはこの二つ、将来を立つものと将来のためになるものっていうのは、 だいたい同時に存在していると思われますね。 先ほどの質と量にもこれは関係しています。 だから燃焼的な考え方とこの二つ、中身、つまり質と無駄なこと、つまり量が混在した状態になっているということですね。
将来の可能性を立つものと将来のためになるもの、この二つの視点は、選択や行動の背後にある深い意味を探る上で非常に重要ですね。質と量、そして行動の中で生まれる燃焼的なプロセスを考えると、無駄に見える行動が長期的な充実を支える要素になることがよく理解できます。未来のために今を犠牲にする選択や、その反対に未来の選択肢を断つことで現在を豊かにする行動は、個人の人生の設計や計画にも大きく関わってくると感じます。
ここまでの話をまとめますと、まずコイント数による統計的運命説と論理的可能説というのがあったということですね。 で、部分的な知能に関わる行動することの原理、行動原理としてはコイント数、運命説をとるということですね。 に対して考え方とか、知性を用いるものに関しては、論理的可能説をとるということです。 また、実はこっちさっきの例で言いますと、質と量の関係と燃焼論についてはですね、これは実はですね、どっちかというと論理的可能説に関わる考え方だったんですけれども、ここまでまとめおわりですね
まとめありがとうございます。ここまでの議論を整理すると、以下のようになります:
1. 統計的運命説と論理的可能説の対比:
• 統計的運命説は行動原理として部分的な知能や決定を扱い、自分の選択を外的要因、具体的にはコイントスのようなランダムな要素に委ねることで構成されます。
• 論理的可能説は知性を駆使し、答えのない問題や不可知の事象に対応します。この考え方は、二項対立を超えて無限の可能性を探索するもので、答えを定義し、拡張しながら進む方法です。
2. 質と量の関係および燃焼論:
• 質を達成するためには量というプロセスが必要であり、この反復や「無駄な」活動が、最終的に価値ある成果に結びつくという考え方です。
• この質と量、燃焼の関係は、論理的可能説に関連しています。つまり、行動を通して無限の可能性を探る中で、無駄なプロセスも含まれるが、それが充実や成果に繋がると考えるわけです。
全体として、行動における統計的運命説と、思考や探求における論理的可能説が互いに補完し合い、質と量のバランスを保ちながら個人の成長や達成に向かうという構造が浮かび上がります。