![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/66997349/rectangle_large_type_2_683a60153932407608567fcbfa9923b0.png?width=1200)
背理法で自らを高みにもっていく
==馬鹿になったつもりでやってみる==
==偉大なひとは、常に、初心者である==
賢いひと、というのを考えると、アホであることが何であるかがわかるだろう。
例えば、事実、その皿の位置を覚え、並べないといけないという、条件を与えられているのに、覚えられない、もしくは、覚えようとしない、学習しない場合がそれである。
ここで一つ問題がある。
それは、アホが何かわかってないと、その真偽を認め、背理法によって、賢いひとをみちびくことができない、ということにその問題点がある。つまり、アホが何かわかっており、実際、具体的にアホが何かを列挙でき、その上で、それ以外のものと矛盾するところを証明すれば、背理法によって、賢い人を導けはするが、アホが何わかっておらず、しかも、具体例を挙げることができず、矛盾することが証明されなければ、背理法で、賢いひとを導くことができないということになるわけだ。
ひとによっては、暗喩や、隠喩といったものを使わないと、わからないという、特殊な人もいる。彼らは、何でしないといけないのかということを意識するあまり、そのルールの意味を理解することを忘れる。
例えば、皿洗いや、皿を並べるという一例を出してみよう。
皿を配置通りにならべるのは、洗濯したばかりのタオルを畳まなくていいというようなくらい、どうでも良く感じるものだ。
しかし、そればかりに気がいって、その真意がわからないと、なぜ並べるべきなのかは、検討もつかないだろう。
皿を並べるということの真意を少し紹介するとこのようになる。
①大事な皿であり、大小様々であるから、配置を決めておかないと、大きすぎる場合、扉のガラスを割る可能性がある。
(例え、卵を落として割っても、動じることのない人に成るべし、とあったとしても。
それが皿になったとはいえ。「どうでもいいことに騒ぎ立てないという暗喩」
「物事のよくわかっているひとは、大きなことで騒ぎ立てたりしない。レオナルドダヴィンチ」
②配置を決めておくと、物がぶつかったりしないので、配置を決めていれば、すべて予定通り入るため
③あの皿はここ、この丼はここなど、決まっているため
④本当はどうでいいけれど、決めておいた方がいいからという理由で
(金髪にしてもいいが、職場で金髪にすることを禁じているのに、あえてルールを破ろうとするひとは、すでに法律を犯すと考えがちであることの兆候であるようにという隠喩)
〈本題〉
馬鹿になってやることは、まるで、最終的な帰結である、学習を終わらせることに、貢献してくれるだろう。
なぜなら、常に、自己を否定し、これではまだできていないと、常に、謙虚とも言える態度で学び続け、ひたむきにすることができるからだ。この方法は、先程紹介した、賢いものの背理法によって、導くものと同様なのであるが、要は、常に自分が高みを望み向上するために、あえて、ダメな自分を否定し、謙虚に学び続ける、というこのスタンスが、まるで、賢いひとに近づいてく、背理法のようであるということなのだ。
そもそも、背理法とは、あるものを証明するのに、先に矛盾を示して、これではないから、そのあるものが、真であると証明する方法だ。辞書的には、このようなものである。
背理法とは、ある命題 P を証明したいときに、P が偽であることを仮定して、そこから矛盾を導くことによって、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることである。帰謬法とも言う。 P を仮定すると、矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる。
しかしこれをスタンスとしてとることもできると、考えるのである。
例えば、現時点で、そうだな、数学なるものができていないとする。それを馬鹿になったつもりでやる(背理法的な態度で挑む)ことを続ければ、段々とできることが増えてくるはずだ。
しかも、1番の権威でさえ、完全にできたわけではないとすれば、もはや、この背理法を皆使って、到達する方法以外存在しないようにさえ思う。