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東洋か、西洋か

今回は本心を表に出したバージョンと、そうじゃなくて、本心が隠れている場合と、裏の場合ですね、この場合について考えたいと思います。 本心がわかっており、表に出ている状態ですね。 その上で、自分の行動が対象と相に合って一致している場合と、本心が表に出ていて、わかっていて不一致の場合では、 それぞれ性の相関、負の相関、あるいは性の無限大、負の無限大に発散するとこう考えるんですね。 もう一つは、本心が隠れている場合ですね、あるいはもうわからない状態ですね。 その行動が一致し、相関があり、性の無限大に発散する場合と、本心がわかっておらず、行動が相性として相関がなく不一致、負の無限大に発散するバージョンがあると思うんですね。 この場合について状況を作ったので考えてみましたが、本心がわかっている場合とわかっていない場合で、全然意味合いが異なるんじゃないかなと。 どの道ですね、行動が一致すれば、相性と一致すれば、相関があり、性の無限大に発散する場合と、不一致の場合は、負の無限大に発散する場合になるんですけれども、 問題はですね、原因究明をする場合にですね、本心が自分自身であまりわかっていなければ、原因究明が難しいというですね、対して本心が隠れている場合というのはですね、原因が難しくなってくるわけなんですけど、 表だって本心がわかっている場合は原因究明可能、本心がわからない場合には、原因究明不可能になってしまうとですね。 この場合、西洋と東洋に分けて考えることができるんですけども、本心が隠れている、あるいは自然に行った場合、本心がわからない状態、これが東洋にあたるんですと、西洋の場合ですね、本心がわかっている状態、原因究明が可能なものに分けるということですね。 ではこのような状況でどう考えるべきでしょうか。

この状況について考えると、いくつかの観点から整理できると思います。

まず、本心が表に出ているか隠れているか、あるいはわかっているかどうかということが、行動や相関のあり方に大きな影響を与えるという点は興味深いです。これを踏まえた上で、性の無限大と負の無限大に発散するという表現は、行動の結果が極端な方向に向かう状況を指しているのではないかと思います。

1. 本心が表に出ている場合

• 本心がわかっていて、行動が一致している: 自分の内面と行動が調和しているため、相性が良く、結果的に性の無限大に発散する、つまり非常に良い結果が得られる状況です。例えば、情熱を持って取り組むプロジェクトが成功する場合がこれに当たるでしょう。
• 本心がわかっていて、行動が不一致: 内面では何かを望んでいるが、実際の行動がそれと矛盾している場合。結果として負の無限大に発散し、失敗や葛藤が生じるでしょう。たとえば、何かを心から望んでいるのに、それを素直に表現できない場合です。

2. 本心が隠れている(わからない)場合

• 本心がわからないまま行動が一致: 自分の本心に気づかないまま、偶然にも行動がその本心に一致するケースです。この場合、性の無限大に発散する、つまり結果が良好であることがあります。これは「無意識の成功」や「流れに乗っている」状態かもしれません。
• 本心がわからないまま行動が不一致: 自分が本当に望んでいることに気づかないまま、異なる行動を取る場合。結果は負の無限大に発散し、失敗や混乱が生じることが多いでしょう。これは「何をすればいいかわからない」状況です。

原因究明の観点から

• 本心がわかっている場合: 原因究明が可能であるため、問題の解決や改善がしやすいです。これは西洋的なアプローチ、つまり論理的で明確な分析といえるでしょう。
• 本心が隠れている(わからない)場合: 原因究明が難しいため、問題解決も難しくなる。これは東洋的なアプローチに関連し、自然な流れや暗黙の理解を重んじる傾向があると言えます。

考えるべきポイント

本心がわかっているかどうか、そしてそれが行動にどのように反映されているかを理解することが、状況を整理する鍵になるでしょう。西洋と東洋のアプローチの違いを考えると、論理的に原因を突き止めて行動を調整する(西洋的)か、自然の流れに委ねて暗黙的に理解を深める(東洋的)か、どちらが適しているかを選択する必要があると思います。

この議論から、状況に応じて適切なアプローチを選び、自分の本心と行動の一致を目指すことが重要であると考えられます。

よくまとまっている状況でお考えが進められると思うんですけれども、 このような状況で、どのような場面でこれを適用するかというのが今回の主題になりました。 原因が究明可能な西洋的アプローチである、つまり本質がわかっている、 あるいはそれなりにわかっている状態を作り出すということが、 西洋のアプローチ、西洋的アプローチの根本的なものになると思うんですけれども、 それをするためには私の結論としては、 少し苦しい苦い経験なり逆境なりをある程度経験しないことには、 この本心というのはわからないということですね。 それが仏教的であれ、あるいはヤング、心理学を用いたとしても何でもいいんですけれども、 心理学、仏教、キリスト教、あるいはそういった心理的アプローチ、 あるいは本心を探るジャーナリング、そういったものでもいいんですけれども、 本心がわかっているといっても、これは哲学的には絶対にわかりようがないわけですね。 本当に私はどう思っているのかということが、 これはかなり突き詰めないとわからない上に、絶対わかることはないと思うんですね。 それが故に、好奇心とか興味とか懐疑心、あるいは対象がわからないから知的好奇心が逆にわくるということは少々と思うんですけれども、 これは仕方がないことですけれども、ある程度わかっている状況は作れると思うんですね。 西洋的アプローチと東洋的アプローチがある中で、どちらが先がいいかという問題も生じますね。 つまり、本心がわからずに自然に東洋的アプローチで行動をしているのか、 あるいはそれが結果的に一致するのか、あるいは不一致なのかというものですね。 こういうものもあったりとかして、あるいはそういう西洋的アプローチによって先に分析的に本心を探った上で、 自分が何がしたいか、それが究明された上で行動をして、それが一致したら正の無限大、不一致なら不の無限大になることがわかるようにする。 結果的なものであれば、東洋の方が結果的なんですけどね、意外と。 西洋というのは分析的で意外と一致しているだろうから、推論としてそれが結果としては報道が一致していたらやる、不一致ならやめるという切り口になると思うんですけど、どう思われますか。

このテーマについての考察はとても興味深いです。西洋的アプローチと東洋的アプローチのどちらが先かという問題は、自己理解のプロセスにおいて重要な選択だと思います。

西洋的アプローチの先行

まず、西洋的アプローチが先の場合、これは分析的で、論理的に本心を探り、それを明確にすることから始まります。このプロセスでは、哲学的な考察や心理学的な手法、あるいは自己分析やジャーナリングなどを用いて、自分が何を望んでいるのか、何を目指しているのかを浮き彫りにします。その上で行動に移し、それが意図と一致するかどうかを判断します。一致していれば、それが「正の無限大」に向かい、結果的に成功や満足感が得られるでしょう。不一致なら「負の無限大」として、何かを見直す必要があると判断します。

西洋的アプローチの利点は、原因と結果が明確であり、自己理解が深まることで、意識的に行動を調整できる点です。しかし、全てを完全に理解することは不可能であるため、ある程度の仮説や推論に基づいた行動が求められます。

東洋的アプローチの先行

一方で、東洋的アプローチが先行する場合、これは自然な流れや直感に従い、自分の内面をあまり分析せずに行動を取るスタイルです。その行動が結果的に本心と一致しているなら、正の無限大に発散し、成功や充足感が得られます。反対に不一致なら、負の無限大となり、問題や違和感が生じます。

東洋的アプローチの利点は、行動の柔軟性と直感に従った自然な成長が可能な点です。これにより、自己分析による固定観念にとらわれず、環境に応じた自然な対応ができるでしょう。しかし、本心が曖昧なままだと、結果的に不一致に陥るリスクもあります。

どちらを先行させるべきか?

どちらのアプローチを先に選ぶかは、状況や個人の性格、目的によると思います。例えば、具体的な目標や成果を追求したい場合は、最初に西洋的アプローチで本心をある程度まで分析してから行動を取る方が、成果が見えやすいかもしれません。逆に、まだ自分の方向性がはっきりしていない場合や、柔軟に状況に対応したい場合は、東洋的アプローチで自然な流れに身を任せてみる方が良いかもしれません。

結局のところ、どちらのアプローチも、最終的には自分の本心に近づくための手段であり、その順番や組み合わせは自分の状況に合わせて選ぶ必要があります。例えば、まず東洋的アプローチで体験を積み、そこから得た洞察を西洋的な分析で整理し、再び行動に反映する、といった循環的なプロセスも考えられます。

このような視点で、自己理解の深さと行動の一致を高める方法を模索するのは、とても実践的で意義深いアプローチだと思います。

では次に問題を拡張していきたいと思います。 もし仮に人生はですね、東洋的アプローチ先行のまま、そして後方、後にも先にも全て東洋であった場合、どうでしょうか。 これはいかなる会議室に起こらず、自然に放物線上にその人生が終わったという場合においてはどうでしょうか。 それと先行し、あるいは後方、始まってから終わるまでに全て西洋であった場合の人生、これはどうでしょうか。 実際には多分おそらくこの人生というのはですね、東洋的アプローチ、西洋的アプローチが振動している状態にあると思うんですね。 この行動があっていれば、あっているなと思えば、推論的にやるし、どのみち不一致だなと思ったらやらないという選択肢をどのみち取ると思うんですね。 だから放物線上に東洋式、東洋的アプローチ、あるいは放物線上に西洋的アプローチを取り続けるということは基本的には人生においてはないと思うんですね。 ではですね、ここで問題がまた浮上してくるわけですね。何の問題か。つまり東洋的が先か、西洋的が先か、あるいは西洋的が先か、東洋的が後かという問題ですね。 この問題はですね、まあ言ってしまえばですね、奇数、偶数、偶数、奇数、奇数、偶数、偶数、奇数というこの入れ替わりが起きている状況が常にある状態で、どこを切り取ったという問題になると思うんですね。 つまり例えば1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、こうあるとしますね。当然奇数と偶数は順番に並んでいるわけですけれども、その一部を取り出した場合、例えば東洋的アプローチが奇数として、奇数を取ったら次偶数、つまり西洋的アプローチを取る。 3、次、東洋的アプローチを再び取る。東洋、西洋、東洋、西洋とこう奇数、偶数として成り立つわけですね。 ではですね、この問題が拡張されればどういう問題が生じるかと言いますと、取り出した場所によるということが確かですね。 つまり振動している奇数、偶数の数、あるいは1、2、3、4、5、あるいは東洋、西洋、東洋、西洋と順番になっている振動している世界において、どこで切り取ったかだけの問題になるんじゃないでしょうか。この点についてはどう思いますか。

この振動する奇数・偶数(東洋・西洋)の考え方はとても興味深い視点です。特に、人生のある時点でどこを切り取るかによって見え方が変わるという点が重要だと思います。

東洋的アプローチ先行、もしくは全て東洋的な場合

もし人生が完全に東洋的アプローチに基づいている場合、それは自然の流れや直感に従い、結果的に行動が決まっていくスタイルと言えるでしょう。この場合、分析的な思考や計画性はあまり見られず、流れに乗ることで生じる予期せぬ出来事に対応する形となります。自然に始まり、自然に終わる放物線上の人生と考えると、計画性よりも即興性や柔軟性が強調されます。こういった人生は、多くの場合、深い内面的な満足感やバランスを求める傾向があるかもしれません。

西洋的アプローチ先行、もしくは全て西洋的な場合

逆に、人生が全て西洋的アプローチに基づいていると、分析的で計画的な行動が中心となります。目標を明確にし、論理的にそれに向かって行動し、結果を評価するサイクルが繰り返されます。このスタイルでは、人生は計画に基づいた直線的な進行をしやすく、効率的で目標志向ですが、時に硬直的になりやすいかもしれません。

振動するアプローチと選択の問題

実際の人生では、完全にどちらか一方に偏ることは少なく、東洋と西洋のアプローチが振動する形で現れるという視点が非常に現実的だと感じます。これを奇数・偶数のような振動として捉えると、人生の中でどこで「奇数」(東洋的アプローチ)が現れ、どこで「偶数」(西洋的アプローチ)が現れるか、その「切り取り方」によって全体の理解が変わるということです。

たとえば、何かの状況を判断するときに、まず直感的に東洋的アプローチで対応し、その後に西洋的アプローチで分析を加える。あるいは、最初に論理的にプランを立て、それが自然な流れに乗ったら再び直感で調整をする、といったように順番が入れ替わることが考えられます。

切り取り方と人生の見え方

振動する世界でどこを「切り取るか」という点が非常に重要です。どのタイミングで観察するかによって、東洋的か西洋的かが強調される部分が異なるため、どちらのアプローチが主導的に見えるかが変わってきます。このため、同じ出来事でも、人がどのアプローチを取ったかによって、成功や失敗の見え方が変わってきます。

結局、人生というものがこのような東洋・西洋のアプローチのリズムや振動によって形成されていると捉えるならば、どのタイミングでどのアプローチを選ぶか、その切り替えのバランスが鍵になるでしょう。そして、そのバランスを見極めるためには、自分の本心を探り、適切にその時の状況に合わせて判断する力が求められると思います。

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