ポン・デ・リング
飴をひとつ噛んで白湯を飲んだ。朝ご飯を食べる気にはなれなかった。
今日会う恋人に、甘えたり媚びたりは絶対にしないと決めていた。スカートやワンピースではなくワイドデニムを履き、アイシャドウはラメの無いものを選び、いつも付けない方の香水を纏った。
早めに外出した。どうにも落ち着かなくて、パンク・ロックを延々と聴きながら、彼に伝えることを考えていた。昨晩は自分の思いをノートに書き綴ったり、友人たちに相談したりしたのだが、当たり前だけれども、ふたりで会って話し合わないと何もわからない。
待ち合わせ場所にしていた今出川のタナカコーヒに着く直前、彼からラインが届いた。タナカコーヒは定休日だったから近くのミスドはどうか、という提案だった。たしかにシャッターは下りていた。
まだ時間があったので賀茂大橋を渡った。すると、反対側から自転車に乗ってきた彼と鉢合わせた。それから一緒にミスドへ向かった。沈黙が続いたためか、彼は「別れ話をするつもりじゃないからね」と言って笑った。
ミスドに来てドーナツを食べないのもへんだと思って、アイスカフェオレとポン・デ・リングを頼んだ。彼はおかわり自由のホットカフェオレにしていた。
いつ話を切り出そうか迷っていると、彼が口を開いた。二日前に電話で言ったことを、ことばを選びながら再度伝えてくれた。私が彼に依存的になっている気がすること、それによって私の行動に制限が生まれているのではないかということ、お互いが重荷にならないために、一週間距離を置こうということなど。
味のしないゴムみたいなポン・デ・リングをかろうじて咀嚼しながら、彼を見つめて言葉を追った。私は、自分の問題を解消しないままに彼と会い、それで負担を感じさせていたことを謝った。加えて、依存しているつもりは無かったのだと説明した。
続けて、ずっと抱えていた気持ちを吐露した。それは、もっと言葉で伝え合いたかった、ということ。コミュニケーションが満たされないなら信頼感も無くなってしまう。話しているあいだ、彼は目を見て静かに聞いてくれていた。
それから未来の話をした。
彼は春から地元で就職する。私はそのエリアで働く気はないし、三回生なのでいずれにせよ一年遠距離になってしまう。だから、ずるずると長引かせるよりも春までの関係にするのが良いのではないか、と私が言った。ちょっと考える、と言って彼は黙った。
彼の結論は、春までと期限を付けるのは違う気がするし、この話をした時点で今までのように接するのは難しくなると思う、ということだった。関係を切るとすれば早い段階。それはたとえば、今日でも?と私が言うと、そうだね、と返した。
また、恋人でなくなってもブロックしたり一切会わなくなるのではなくて、趣味や相談事を共有できる友人に戻れたら、と彼は言った。一方私は、未練が残ってしまうから終わったらきっぱり連絡を断ちたいのだと言った。全然違うね、とふたりで笑い合った。それは自明なのだけれど、とりたてて話し合ってこなかったことでもある。言語化大事だね、と彼は呟いた。
ブロックはしなくても連絡を取ったり会ったりはしない、友人ではなく知り合いとして居る、ということで、私寄りではあるが折り合いをつけた。
最後に、彼への感謝や尊敬するところを沢山伝えられたら、と思った。でも、いざ声に出そうとすると言葉の代わりに涙が出てきてしまった。外に出て話さないかと提案したけれど、ここで完結させた方が良いと思うと彼は返し、今までで十分伝わってるから言わなくてもいいよ、と穏やかに言った。私は、言語化しない良さもあるんだね、と笑ってみた。初めて本当にそう思った。
店を出て、河原町今出川の交差点で別れることになった。ありがとう、と言い合ったあと、信号が青に変わった。彼は、気をつけてね、と最後に言った。それでどうしようもない気持ちになって、私が返した「気をつけて」の声は聞こえないくらいに霞んだ。彼との別れ際はいつも振り返っていたが、今日は振り返らなかった。
いつまで経っても緑の四角に赤い点は付かなかった。ああ終わったのだという寂しさと、彼の誠意とを思った。