息継ぎ
本日のお話をさせていただきます。
合掌、なんまんだぶ、礼拝
🙏🙏🙏
子どものプール付き添いをしながら、ふとこんなことが頭に浮かびました。
備忘録程度ですみませんが、お付き合いください。
お念仏を称えることは、水泳の息継ぎのようなものではないでしょうか。
生きるということを、悩み苦しみの大海原で泳ぎ続ける、と例えてみます。
潜ったまま泳ぎ続けることはできませんから、私たちは必ず息継ぎをしなければなりません。
でもそれは誰か(コーチ)に教えてもらってできるようになる。
息継ぎの仕方はこうだよ、正しい泳ぎ方はこうだよ、ということです。
コーチは、同時に私がしっかりと息継ぎできているか見守ってくださる、声をかけてくださる。
「安心していいぞ」「大丈夫だぞ」「決して一人じゃないぞ」
その声かけにより、私は息継ぎを思い出し、かつ目の前のコーチの存在に安心して泳ぎを続けることができる。
息継ぎのたびに、私はコーチと出会うということです。
コーチの声かけが、私の息継ぎとなる。
私の息継ぎから、コーチが見守ってくれている、導いてくれていることが分かる。
苦しみの大海原を泳ぎ渡るには、必ずコーチとの出会いが必要になる。
自分一人の力では決して成し遂げることはできません。
親鸞聖人の示されたみ教えで言い換えるならば、
コーチ 🟰 阿弥陀如来(仏さま)
息継ぎ 🟰 お念仏(仏さまからの呼び声に応える)
悩み苦しみの大海原も、仏さまというコーチに導かれながら、着実に泳ぎ続けていけるのです。
必要なのは息継ぎ、そう、お念仏です。
子どものバタフライを見ながら、ふとこんなことを考えていました。
私はバタフライできませんけどね(笑)
本日もお参りいただき、有難うございました。
合掌、なんまんだぶ、礼拝
🙏🙏🙏
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