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今年最後のなごり雪と私の小さな食堂

春なんてものは、海の向こうの遠い国でしか出会うことができない、例えばオーロラのような、私たちにはこれっぽっちも縁のない存在だったのだ。

そう、思わざるを得ない日だった。

今日、3月21日、春分の日。東京は雪が降った。

春の足音どころか、気配すら感じられないこの日、私にはどうしても行かねばならない場所があった。今日はその話を記そうと思う。

***

その小さな食堂は、小田急線沿いの世田谷区、経堂という町にある。2012年の春、大学を卒業し、社会人一年目に私が住んだ町だ。新しくなった駅舎を中心に、すずらん通り、農大通りといった商店街が連なり、大学が近くにあるからか、若者も少なくない。

私は本町通りという、他に比べればひっそりとした静かな通りに住んでいた。8畳弱のワンルーム。陽があまり入らず、家具をおけば思った以上に狭い部屋だった。

経堂には1年ほどしか住んでいなかったが、はっきりとした思い出がいくつかある。空気の澄んだ朝の公園を思い切り走ったこと、小さなカフェで仕事に没頭して、終わった後に飲んだビールが泣くほど美味しかったこと、飲み屋で出会った男の人に片思いしたこと。

振り返れば、経堂はとても豊かな町だった。今は赤坂なんていう、テレビ局が目の前にあったり、国会議事堂がすぐそばにあったりするような変な町に住んでいるけれど、経堂は人の生活がある町だった。

だから、その食堂は経堂にぴったりの店だと思っていた。OSSEという名前のその小さな店は、私が住んでいた家の、隣の、隣の、隣にあった。管理栄養士のとても優しそうな女性が切り盛りしていて、確か私がちょうど引っ越してきた同じ頃にオープンしたと記憶している。

メニューはとてもシンプルで、「今日のごはん」という週替わりの定食と、豆乳のグラタン、おからのカレー、それと女性の出身地という伊勢のやわらかいうどん。いくつかのスイーツもあった。

当時あまりお金がなかった私の食生活は自炊が基本だったが、たまに仕事で疲れきっていたり、もう台所に立ちたくないと思うと、すぐにそのお店に駆け込んだものだ。店長の女性は物静かで、そんなにワイワイと話をするタイプではなかった。けれど彼女が厨房に立つ姿は、なかなか実家に帰らなかった私にとって、母のような安心感があった。そして彼女のつくるごはんは、とてもあたたかく、やさしかった。

だから、お店がこの春で閉まると知った時は、まるで通っていた小学校が閉校すると知らされた時のような、「さみしい」という気持ちに、心が包まれた。

経堂の町を離れてから、お店には2度ほど足を運んだが、最近はすっかりとご無沙汰だった。「お店が閉まると知って、久しぶりにお邪魔するのは少し図々しいかな」とも思った。けれど、やっぱり諦められなかった。あのごはんの味を、ぼんやりとした思い出で、終わらせたくなかった。

赤坂から、小田急線直通の千代田線の電車に乗り、代々木上原で電車が地上に出ると、連なる家の屋根が真っ白で、私はそれからしばらくスマホを閉じて、外を眺めていた。最近はモノレール以外で地上の電車に乗ることが滅多になくて、懐かしい小田急線のアナウンスに、社会人になったばかりの頃のことを思い返していた。

懐かしの我が家を横目に、お店に着くと、中は閉店を惜しむ人で混雑していた。1時間ほど待つということで、席が空く連絡をもらうまでの間、雪がちらつく経堂の町を散策した。

午後3時。電話があり、かじかむ手をポケットに入れて店の引き戸を引いた。「おまたせしてごめんなさい、田代さん」と、店長の女性は私の名前を呼んで、奥のソファに通してくれた。

遅めの昼ごはんのメニューは、鶏肉と卵のバルサミコ酢煮込み、昆布の佃煮がのった雑穀ごはん、味噌汁、白和え、サラダだった。お盆に、一人分ずつの食事が載って、私の目の前に運ばれてくる。

東京ではほとんど自炊をしなくなった私は、久しぶりにインスタントではない味噌汁をすすった。プラスチックのパックに入っていないサラダ、木のお箸、お茶碗のごはん。ほろほろに煮込まれた鶏肉はとても味が染みていて、添えられていたスナップえんどうをかじると、ふわりと春の味が口に広がった。

おいしいごはんを食べる、それがこんなに幸せなことなのかと、胸をぎゅっとつかまれる。冷え切っていた体温が、ちょっとだけ上がるのを感じた。

手作りの伊勢紅茶をつかったシフォンケーキとハーブティもいただいて、私は店長の女性にごちそうさまを伝えてから、お店を後にした。

今日、3月21日、春分の日。

帰りがけ、頬を撫でる風は相変わらず真冬のように冷たくて、ビルケンシュトックのブーツの中で、キンキンに冷えた足の指が縮こまっていたが、経堂の町に降る雪はみぞれに変わりつつあった。

聞くところによると、お店は店長の女性のふるさとに、この春以降再オープンするという。

大切なことを思い出させてくれた味との再会、そして新たな門出の知らせに、「やっぱり今日から、春なんだ」と感じた一日だった。

(2018.3.21執筆)

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