2024/03/17 BGM: U2 - Get On Your Boots
今日は休日だった。朝、恒例のzoomでのミーティングで英会話に興じる。その後、これまで続けている英語のアクティビティ(つまり、どんなことを英語を学ぶ上でやってきたか)をメモパッドに書いていった。たとえば英語で毎朝日記を書きつけ続けていること、いつも書いている英語メモ、DiscordやMeWeでの英語でのコミュニケーション(単にチャットしているだけだが)、そしてその他SNSを使った交際。その後、図書館に行きオーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』を借りる。
10時より、zoomを使った「発達障害を考える会」のオンラインミーティングに参加する。そこにおいて、ぼくの発表の板に上に書いてきた英語活動について話す。この学びの始まりをたしかに思い出せる。なぜこんなふうに英語を学ぼうと思い始めたのか――その昔、40歳の時(そしてすでに人生に絶望していた頃)、いまのジョブコーチの方に言われた言葉が発奮するきっかけとなったのだった。「あなたの英語はきれいでわかりやすいです」と。そしてほぼ同時期、MeWeで別の友だちが言ってくれた。「あなたの英語はクールだ!」。ああ、そこから変わったのだった。
でも、だからといって「英語は必須! できないのは単にあなたが怠惰だからだ。世界はグローバル化しているんだから」なんてことは言わない(「口が裂けても」言わない。ぼくだって皮肉でもなんでもなく、きわめて怠惰な人間です)。この世にはすでにいろいろなデバイスが存在する。平たく言えば、翻訳してくれるポケトークのような機器がある。そうした機器はきわめて早く・的確に英語に翻訳してくれる。それらを使うな、なんてことは言わない。便利なのはいいことだ。ただ、思い出すのは「サピア=ウォーフの仮説」だ。使う言語がその人の考え方・フィーリングを左右する(可能性を持つ)というもので、この仮説にしたがえば言葉を学ぶこと・話すことは別の言語へと自分を開くチャンネルとなりうる。だから興味を以て学べるのだろう。
そのミーティングでは、他の方のプレゼンテーションも楽しめた。特にある方の「ルッキズム」という現象に関する発表が面白かった。これは見かけ・外見がその人の印象を左右しかねないというものだ。言い換えれば外見がその人に対する偏見を生むきっかけとなる(「偏見」なので、騙されることもある)。ぼくが思い出すのは、とあるアメリカのネイティブの方の話。この方は英語教師で、アフロ・アメリカン(俗に言う「黒人」。ただ、彼女のルーツはよく知らない)なので「ヒップホップはお好きですか」と訊かれてそれで困ったのだとか。もちろんアフロ・アメリカンならヒップホップなどの音楽に通暁しているという偏見の産物だろう。
夜になり、またある友だちの英語でのzoomのミーティングに参加する……ああ、アホみたいにたくさんの機会を介して英語に触れている。勉強家? ではないだろう。なんというか、自分でも「英語クレイジー」だなとあきれてしまった。