2023/05/28 BGM: The Clash - London Calling
今日は休みだった。朝、山に行きそこで例によってFlareのアルバムを聴きつつ考えごとをするも、今日はあまりはかどらなかった。ふと、九州の友だちからWhatsAppでメッセージを受け取る。アキ・カウリスマキがカンヌで賞を受賞したとの知らせだった。私はそれに関してはぜんぜん知らず、ただ日本のTwitterを通して日本から役所広司と坂元裕二が賞を受賞したことだけを知っていたので、海外のプレスやその他のニュースソースを通してニュースを知ることの大事さについて改めて考える。是枝裕和といい、私やその友だちが畏敬の念を以て接してきたアーティストたちの躍進に私も「頑張らねば」と思わされてしまった。山を降りる。そしてリチャード・H・スミスの著作『シャーデンフロイデ』を読み終える。この本は日本のことわざ「人の不幸は蜜の味」、もしくは端的に「メシウマ」と呼ばれる「人の不幸を喜ぶ」心理、ひいては「嫉妬」に関する心理を微細に分析した本でその明快な論旨に引き込まれてしまう。実に面白い(と書くと語弊があるが)本だ。
「人の不幸を喜ぶ」心理。何を隠そう、この私の中にもそうした心理は確実にある。それは多分に「何であいつがあんなに秀でているんだ」と不公平や不平等を感じるからである。私たちはみんな違う。顔の美醜も違うし、賢さや背の高さだって違う。そして、そんな違いこそが個性である……と割り切れない心理が私の中にもある。そこからそんな「シャーデンフロイデ」「メシウマ」は来るのだろう。昔のことを思い出す。私は自分が完全に不幸で惨めであるという思い込みに支配されて、ゆえにそんな他人の不幸を望んだものだ。惨めな死(犬死に)さえ望んだかもしれない……『シャーデンフロイデ』ではさまざまな事例が分析される。政治家やセレブのスキャンダルによる失脚、リアリティショーにおけるイジりから来る屈辱・恥辱がもたらす笑い、あるいは反ユダヤ主義から来るユダヤ人への迫害。扱われる話題のレンジが幅広いので、「私はそんな『メシウマ』とは無縁の『リベラル』な人間だ」と言う人に対しても訴えかける内容となっているのではないか。私もこの心理を「他人事」と思わず、虚心に学ぶ必要を改めて感じた。
映画『セブン』を通して、私は「嫉妬」が「7つの大罪」の1つであることを知った。その「嫉妬」が人をして「競争心」に火をつけ、そこからよりよい人生を歩ませることもありうるので簡単に「嫉妬」がいけないことだとは言えないだろう。だが、まずはその「嫉妬」というネガティブな感情を自分の中で認め、位置づけることが大事だとこの本では語られている。それは簡単な作業ではないだろう。私自身について(いつものように「くどくどと」)語ってしまうと、私も早稲田を出たとはいえ「発達障害者として生まれてきたことを恨む」と感じ続け、「おれをいじめた奴らが出世して幸せに生きているのが気に食わない。ぶちのめしてやりたい」とも思った。「嫉妬」ということで言えば「あの人よりもペラペラ英語を喋れるようになりたい」とも思い……今はそんな「嫉妬」を自分の宿痾として受容できる。この変化はどこから来るのだろう。わからないけれど、そんな醜い感情から目を背けないことの大事さを私は人との関わりを通して教わってきたとも思う。その醜さの自覚が人をして「シャーデンフロイデ」を相対化させられるのではないか。
夜、朝に映画についてWhatsAppでニュースをシェアしてくれた友だちから再びメッセージをもらう。彼がムスリムの集いに参加してご飯を一緒に食べたことがきっかけで(信者というわけではない。為念)、そこからムスリムについて理解することの大事さを学んだというのが骨子だ。私自身、宗教的に敬虔な人々というと自分のような俗世に染まりきった人間とは端的に「ステージが違う」と「敬して遠ざける」心理が働く。そして、私は怪しげなニュースに毒されてきたからかムスリムの人々のことを「狂信者」と思っていなかったかと思い、そのバイアスを反省したのだった。もっと言えば「テロリスト予備軍」と(はっきりとではないにせよ、心のどこかで)思っていなかったかと……その友だちからエドワード・サイード『イスラム報道』という著作について教わる。サイードは昔『オリエンタリズム』を読んだきりなので、これを機にムスリムについて虚心に学ぶことは有益だと思った。宍粟市でも異文化交流・理解のきっかけは確実に増えている。それは時に「めんどくさい」ことかもしれない。だが、そうした「めんどくささ」を超えて理解し合うことは意味があるし、また確かな楽しみをもたらしてくれる……そんなことをその友だちから学んだと思った。