2024/03/24 BGM: Brook Benton - Rainy Night in Georgia
今日は休日だった。朝、イオンでついにビオリカ・マリアン『言語の力』を完読する。読みながら、なぜぼく自身が英語を学び続けているのか考えてしまった。流暢になろうと挑むこと、チャレンジすることは思うに、ぼくにとってこの世界を別の位相から掴んで捉えることだと思った。たとえば、日本語の環境だけに我が身を置いていたならばぼくはこの外の世界がどうなっているのか理解し得ないだろう。いまはもちろん、機械翻訳のさまざまなツール(便利道具)を使って海外のニュースなどのソース(情報源)を翻訳することができる。でも、ぼくは英語でそうしたソースを読むことは楽しいとも思う(どういうことなのかは説明できないけれど)。
この世界を別の、異なる位相から眺める――ぼくはそんなことを続けてきた人間である。いや、ぼくとて定型発達者の人たちの作法を追い趣味嗜好を学ぼう、倣おうと試みてきた。でも最終的にぼくはどんなふうに自分がおかしいのか晒してしまうこととなる。この人生を生きるにおいてそれがもっともやっかいなことだ――だからたぶん、ぼくはさまざまな哲学的で「深い」と言われるアイデアにハマってしまうのだろう。ニーチェやウィトゲンシュタインなどなど(とりわけウィトゲンシュタインの仕事から、ぼくたちのコミュニケーションがどれほど謎めいているか学ばせてもらったとぼくは思っている)。
その後、図書館に行き村上春樹の初期作品を何冊か借りた。ランチを食べて昼寝を楽しんだあと、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を読む。そして、原始的で子どもじみた疑問にとらわれてしまった。いったい、こうしたデビュー作(あるいは初期の試行錯誤の段階の作品)の「テーマ」「主張」はなんだろう。少なくともぼくにとっては、こうした初期作品はどう語り手が自分自身の独自のストーリーを語るにあたって「オリジナル」なやり方を見つけるか綴っているように思った。彼はどう明晰にストーリーを語りうるか。異論を呼ぶ繊細な議論になるかと思うけれど、ぼくにとっては彼の文体はとてもわかり易いし受け容れやすいものだ(間口が広いオープンなものだ、とさえ思う)。
これは噴飯物と嗤われるかなとも思うけれど、ぼくは他者とのコミュニケーションを通して村上春樹自身が外部の世界、あるいは他者と関わりアクセスする試みを続けてきたと受け取る(もちろん、これは春樹と作品人物が同一と見做して読むことが前提となる)。ああ、初めて彼の作品を読んだときのことを思い出す――新しい言葉を以て記した、新しい方法で世界にコミットするやり方を「体感」したとさえ思う。この世界を見る新しい「ものさし」をインストールした、ということでさえありえたのかなと。