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ハッピー・ジャック 日曜哲学宣言 #8

いったい何を書いたらいいだろうかと考えて手詰まりになり、しょうがないのでたまたま手元にあった水村美苗『私小説 from left to right』や『日本語が亡びるとき』をパラパラめくる。思えば、水村美苗を始めとするバイリンガルあるいはマルチリンガルの書き手の本をすんなり読めるようになるまでには結構時間がかかったことを思い出せる。

何を隠そう、ぼくは大学では英文学を学んだ。当時ぼくは佐野元春の影響でボブ・ディランや彼と交友関係が深い文学者たちにあこがれ、そこからビートニクスにも手を伸ばしてみるところまで至ったのだった(とはいえ、ぼくの理解では追いつかず『吠える』も『オン・ザ・ロード』も結局ぜんぜん自家薬籠中の物とはなっていないのだけど)。

そんな過去を経ていながら、それでも40になって英語を自分の責任において一念発起して学び直し始められるようになるまで、英語が話せなかった(というか、そう思い込んでしまっていた)ことはぼくの中で立派な恥として存在していた。身も蓋もなく言えば、ぼくは学ばなかったから話せなかっただけというのにそれを棚に上げて悩んだ。

学ぼうとして、英会話教室に行ってみても余計なプライドが邪魔をしてしまう。恥をかいてでも話さなければうまくならないというのに(そして、ある意味では英会話教室は「恥をかいてもOKな場」を与えるのが仕事・ビジネスだというのに)、それができなくて結局ロクに話せもせず、お金をドブに捨ててしまっていたことを思い出せる。


思えば、ぼくに足りなかったのは「英語を話せる自分」を目指すことだけではなかったのかもしれない。そうした向上心も大事かもしれない。でも、そうして向上心ばかりが先走ってしまうと自分の足元を見つめるのが怖くなる。高いところを見上げれば必然的に足がすくみ、身動きが取れなくなる。少なくともぼくはそういう臆病者だったのだ。

この経験・半生から語るに、ぼくは決して夢を見たり向上心を高く掲げたりしてはいけないのだとさえ思う。そんな高望みは止めて、地道に眼前の目標を1つずつこなしていく方が性に合っているのかもしれない。それによってこそ、やがてはとても大きな目標・野心を実現させるところまでたどり着くことができるのではないか、と。

これは英語だけではない。断酒にしても、仕事にしても基本は同じだ。おそらくぼくは未来を見渡したり過去を振り返ったりすることができないのだろう。いまだけを刹那的に生きて楽しみ、「宵越しの銭は持たない」を地で行く快楽主義を享受する。そんな感じで生きて、そしてたぶんあっさり死んで終わるのがぼくの人生かなとも思う。

だが、それでも結構ではないかとも思えるようになった。下手をすると、ぼくなんていつ死ぬかさえわからない。いまを生きられていることに感謝し、それを明日につなぎ、その明日においてあさってにつなぐという段取り・ステップで生きていく。そうすることによってこそぼくはぼくなりの幸せをつかめるのだろう。どう思われるだろうか。

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