2023/06/02 BGM: Mr.Children - 名もなき詩
今日は遅番だった。朝、豪雨に見舞われる。Discordで友だちから面白い記事をシェアしてもらった。母語ではない言葉で書くことを試みている作家たちを取り上げた記事だ。多和田葉子の著作を通じてこうした書き手たちの活動を「エクソフォニー」と呼ぶことを学んだのを思い出す。この記事から、別の切り口でそんな「エクソフォニー」について学べることを嬉しく思った。そして私がやっていることもまたそんな「エクソフォニー」なのかな、と思ったりもしたのである……いや、私は別に英語で書かなければならない必然などない。政治的なプレッシャーに押しつぶされそうになっているわけでもないし、自分の言葉が通じないことに生きづらさを感じたこともない。私の場合はほんとうにぬるま湯に浸かって語学学習の一環として(言い方を変えれば「趣味」として)あれこれ書いているとも言える。つまり、ジュンパ・ラヒリが英語やイタリア語で書くのと私が漫然と英語で書くのとは違う。これは自虐でも謙遜でもなく端的な事実だ。だが、発達障害者としてギクシャクした日本語を使って生きてしまうがゆえに生きづらさを感じているという意味では自分は「日本語が母語の『ガイジン』」なのかなとも思う。
この日記で「ぼくの英語はひどいものです」と書いて、それで「そんなことはありませんよ」とコメントをいただいた。「あなたの英語はグッドです」と。もちろん非常に光栄に思ったのだけれど、私が「ひどい」英語と語った時に言いたかったのは私は教科書通りのクリーンな英語を話すつもりがないということだった。もっとノイジーというか「歪んだ」英語というか、「乱れた」英語というかともかくも「個性的な」英語をしゃべっているというのか……そんな意味での、「物議を醸す」ものでさえありうるような英語だ。昔ならこんなスットコドッコイな言葉遣いを(英語・日本語を問わず)してしまう自分を恥じていたと思う。このトンチンカンな言葉遣いは多分に発達障害が原因に違いないので、つまりそこから帰結として「私自身の思考回路がヘンだから私の言葉がヘンなわけで、つまりは私が悪い」となってしまう。そして、過去はそんな「ヘン」な自分をずいぶん恥じたし、あるいは裏返しとして「ヘン」に徹しようとあれこれ無理をしたりもした。今は自然体で話せていると思う。自分のまま、ありのままでいることがクールなのだと40を過ぎてようやく私は理解できてきたと思う。別の言い方をすれば、そんな初歩的な事実が腑に落ちたのが40を過ぎてようやく……だったのである。
昼、clubhouseであるルームに入る。そこで英語でおしゃべりをする。そのルームのトピックが「夏から連想することは何ですか」というものだったので、私は自分の仕事のことを話す。何を隠そう、私はデパートに勤めているので夏と冬、具体的には「お中元とお歳暮」というか「盆と正月」はまたとないビジネスチャンスなのだった。ゆえに非常に忙しく、夏休みなんてない……そしてそれに加えて、自分の誕生日が7月3日であることも話す。つまり夏が来ると1つ歳を取ってしまうわけで、「また1つ歳を取ったなあ」と感慨に耽ってしまう季節であるとも話した。ああ、なんとも世知辛い世の中というか現実というか……だが、別の言い方をすれば私はそんなふうに「忙しく働く日々」や「健康に歳を重ねられる身体」といったものに恵まれているとも言える。そう考えれば幸せとも言えるのかなとも思う。私は決して自己責任論をふりかざしたいとも思わないが、もしほんとうに私が今置かれている状況が嫌なら「バックレる」ことだって考えてもいいわけで、そこまでしたいとも思わないし……それなりにストレスがあるとはいえ仕事があり、私生活においても人に恵まれ生きられている。不自由な自由を生きている、と言えるのかなとも思う。ヘンな言い回しになってしまったけれど。
戸谷洋志『SNSの哲学』を読む。TwitterやLINEといったSNSを使う私たち自身のありようについて哲学的に探究した1冊だ。私自身、FacebookやDiscord(これはSNSではないか?)を使って生きているのだけれど、過去にそうしたSNSが織りなす狭い空間で人気者になろうと気取ったことを思い出す。日本語ではそうした狭い空間を「世間」とも呼べるのではないか。Twitterのタイムラインが織りなすような「世間」。そこでずいぶん承認欲求に囚われて無理をしたものだ。その意味ではネットは危険な空間だと思う。特に私のような、内面に途方もない空虚を抱えてうろついている人間にとっては……と書くと訝しく思われるかもしれないが、私は元来確固としたポリシーがあってそれに基づいて生きているわけではない。私はほんとうに空っぽな人間で、外にあるさまざまな記事やコメントに反応してそれについて考える内に自分の意見が自動的に立ち上がる。だからこの日記にしてもあとで「こんなことを書いていたのか」と自分の「行き当たりばったり」に赤面してしまうのだった。『SNSの哲学』についてはまたいずれ(書くスペースがなくなってしまったので)……。