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だいたいで、いいじゃない?(日曜哲学宣言 #3)

去年、ぼくは池澤夏樹の最初期の作品『スティル・ライフ』を読み返した。初めて読んだのはぼくが十代の頃だっただろうか。いまぼくはアラフィフで、つまり30年近く経って読み返したことになる。常識的に考えれば、十代の頃の方が新鮮・鮮烈な印象を感じられこの歳になるとそうした繊細さを失うと考えるものだろう。一般論ではそうだ。

でも、去年のその読書でぼくはこの『スティル・ライフ』の世界(というか「沼」)にもっとすんなりと入り込めたようなそんな気がした。あまりに深く突き刺さったので、「この小説は、もしかしてずっとぼくを待っていたのではないか(30年間も)」とさえ思われる。それだけでぼくにとっては村上春樹やポール・オースター級の名作だ。

ぼくは本を読むけれど、でも名作や傑作のたぐいを読むわけではない。過去に無理をして志賀直哉や永井荷風を読んで、わかりもしないのに気取ってむなしい思いをしたことがあるのでそれ以来「自分の勘(ヤマカン)」に誘われるまま、関心があるものだけを追い求めて読み進めているのが実状だ。だからぜんぜん大したことない読者である。

でも、そんな感じで勘に誘われるまま生きても「無問題(ノープロブレム)」ではないかなとも思う。居直り、と言われればそれまで。もっと「時の洗礼」に耐えた、それこそスタンダールやバルザックでも読みなさいということになるかもしれない(ぼくだって40を越えて、おっかなびっくりドストエフスキーを読んだりしているのだが)。


勘を信じ、偶然に身を委ね、流れに身を任せる。思い通りにならないことをあきらめ、思い通りになることを極めようとする。もちろん、そんなにすべてうまくいくわけないのでまたそこで「行き当たりばったり」「だいたい」で生きてみる。そうすると、たまにそんな感じで『スティル・ライフ』との再会みたいなこともありうるのだった。

もちろん、そうした勘が養われるようになるにはコストだってかかる。また、そうしたコストを払って経験を身に着けたとしてもしくじる時はしくじる。これはギャンブル(賭け事)と同じで、時には完全に「ツキ」に見放されたような孤独で理不尽な思いに襲われることだってあろう。でも、そうした時も人を育てうるとぼくは信じる。

『スティル・ライフ』との出会い直しで、たとえば池澤夏樹が込めたさまざまな印象的なフレーズが「突き刺さる」のを感じ、そして必ずしも「スジ」の面白さだけが作品のキモではないのだという当たり前のことが身に沁みた。そこに至るまでには加齢による肉体の衰えと精神の円熟(手前味噌だけど)もあったわけで、それが「変化」だ。

そんな「変化」を経験し、そして少しずつぼくはぼくが目指す人間像へと近づいていく……と書けばカッコいいが実態はどうだろうか。いまだにぼくは過去の名作群を読めず、マルケスもリョサもロクに知らないままだ。完全になることをあきらめて、ぼくなりの日進月歩の進歩を目指し右往左往する。そんな感じでぼくは50になるのだろう。

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