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2024/03/25 BGM: Prince - Purple Rain

今日は遅番だった。今朝、ぼくはオーシャン・ヴオン『地上でぼくらはつかの間きらめく』の続きを読もうとして着手したのだけれど、本の中身に入っていくことができなかった。もちろんこの本は実にすばらしいものだ(再読なのだけれど、実にリリシズムを湛えたみずみずしさにあふれた1冊と思う)。だからなんでこんなことを考えてしまうのか自分でもわからない。たぶんこの感覚は外で降っていた雨の影響かなと思った。そういうことが起こりうるのもまた人生というものかな、と悟ったことを言ってみる。

本に入り込めない時に、村上春樹の初期の逸品『1973年のピンボール』の主人公のような感じでぼくは自分自身に静かに語りかけたりする。メモパッドを眼前に置いて、そこに英語でアイデアの断片を書きつけていくのだ。言い換えれば、いわゆる自己内対話というやつで自分の内なる思いを「吐き出す」(文字通り「心のゴミ」を出していくわけだ)。でも、そんなことをしてもぼくの中の相手の人格(言葉に答えてくれるもう1人の自分)は沈黙したままで答えてくれなかった。だから諦めてしまった。

仕事の合間、休憩時間にこんなことを考えた――いったい、幸せとはなんだろう、と。実を言うと、あきらかな事実として(この日記にもちょくちょく書いてきたことだが)――ぼくはぜったいに成功した、パーフェクトな人間ではありえない。何度でも言う。でも、ぼくはこの小さな自分、そうした「完璧になれない」自分に対する諦めと共に生きる自分に共感・同情を感じる。いじめに遭った時期があったり、シビアな時期を生きさせられたりしたからかもしれないのだけれど、かつてはぼくの中に強い強迫観念があってそれに苦しんだ。強くなるのだ、成功するのだ、みんなを見返すのだ、などなど。

それを一概に悪いとは言わない。ある意味ではそういうのを「野心」「野望」と言うのだろうとイヤミでも皮肉でもなく思うからだ。でもぼくの場合は、そうした強迫観念が頭がおかしくなるくらいのところまでぼくを追い詰めたことを思い出せる。気が狂いそうなほど、「成功しない自分」と「理想」のギャップに悩み……リアルでいまの友だちに出会って、その後いろんな試行錯誤を積み重ねて恥をかいた。その恥をかいた経験がぼくを鍛えたのだろうと思う。

いま、ぼくは日常生活において英語を学ぶことを楽しめている。ほぼ毎日、Zoomで開催される早朝の英会話のミーティングに参加し、そしてWhatsAppやDiscordやMeWeで友だちと英語でのコミュニケーションを楽しむ。この指で触れられるはっきりした幸せというものはそうしたところにある、と感じる。このスキルや興味を活かしたことができれば、とも考えられるようになった――教えること、あるいはこうして書くことによって。いや、そのためにはまず動かないといけないのだけれど。

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