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2024/04/10 BGM: Senri Oe - APOLLO

今日は遅番だった。今朝、いつものようにイオンに行き午前中をクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの珠玉の音楽を聞いて過ごす。選んだ本は日本の著名な、押しも押されぬベストセラー作家・重松清と偉大な哲学者・鶴見俊輔の対談集『ぼくはこう生きている 君はどうか』だ。鶴見俊輔の著作を最近またかじるようになったことでこの本にも興味が向いたのだけれど、とても興味深い1冊だった。

対談の流れを追っていると、彼らの簡明・明晰な言葉がとてもすんなりとぼくの中に入ってくることに驚かされた。彼らの意見(そして、彼らの思考のスタイルというか流儀)が「信じられる」「信頼できる」ものであるとも唸らされたのだった。とてもおかしなことだ。というのは、ぼくは根っこの部分では人にヘコヘコすることができないので可能な限り「一匹狼」であろうとしているところがあるからだ。でも、彼らの態度は俗に言う「偉大」なもの、「偉人」のたたずまいを備えたものではないかもしれないが、彼らは自身のきびしい人生経験で体得してきた「本音」「俺節(なんだか悪い意味で『男臭い』言葉で恐縮なのだけれど)」を語っていると思った。オリジナルで肌になじむようなそんなぬくもりを備えた言葉だ。重松の仕事、とりわけ彼の小説は読まず嫌いだったのだけれど読んでみたくなってしまった。きっと嘘なんかつかない、裏切らないものだろう。

その本を読み終えたあと、別の本を読んでみた。この日記でもたびたび書いてきた、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』だ。ある種の非行少年たち(非行のあまり、収監される状況にまで追い込まれる)がどんな困難・生きづらさを抱え孤軍奮闘しているかを語ったもので、読んでいると彼らの問題の可能性として脳の困難(認知・理解の限界というか歪み)があげられうることにまで思いが及ぶ。

ぼくの場合、多分に発達障害ゆえのこともあってかぼくもまた同じような「ケーキの切れない」子だったことを思い出す。教室でじっとしておられず、エッチな衝動に悶々として抑えきれず苦労したことを(いまだって買い物や過食や性の衝動を抑えきれず、ゆえにグループホームの施設長やスタッフあるいはジョブコーチなどの方々のお世話になっている)。ぼくの書き物からうかがい知られたかもしれないが、こうして書いているものにしたってぼくの考えがあっちこっちに飛び散ったりしがちな、落ち着きのないものであることが明白ではないかと思う。それもまた発達障害ゆえだろう。

と書いてきて、この2冊の本が同じような内容を持っていることがわかった。いや、これは当然偶然の産物なのだけれど、両方とも「悲しき不良少年・少女」について語っている。ユニークな人格を持ち、ゆえに困難を強いられて生きている子たちの話、というように。そうした生きづらい個性というか尖った部分をユニークさとして称揚すべきか、それとも彼らの幸せな人生のためにこそ投薬治療や「コグトレ」の対象として対処していくべきか。難題だと思う。ぼく自身もちろん、答えなんか見つけられていないことを告白する。

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